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和書>小説・ノンフィクション>文芸>日本文学:現代小説
田辺文夫(たなべ ふみお) 金沢市出身。金沢桜ヶ丘高校、東京大学医学部卒。精神科医。立川市在住。
いつの世も変わらぬ、悲しいが、どこか滑稽な人間模様。そんな作品が5篇収録された、精神科医が書く短編小説集。
1或る男の残像 2監督 3バタフライ・ノート 4ゆずり葉 5終着駅のタンゴ
前から細面の男が歩いてきた。 てっきり、鹿村だなと思ったが、そんなはずはないとすぐに否定した。 20数年も前に会ったきりの男が、その当時のまんまの姿で出現するわけがない。 錯覚を楽しんでいるにすぎないと考えた。わかっているくせにと、夏木は自分をたしなめて溜息をついた。 かたわらを過ぎていく男は、あの鹿村ほどには痩せてもいなければ、どことなく陰りを含んだ飄逸の面影も持ち合わせてはいなかった。 どこへ行くにもつっかけ一つの鹿村より、一段も二段も身なりも足元も整っていた。 ところが、その男が突然彼に挨拶をした。単にピョコンと頭を下げただけのことであった。 「あれっ」と言って夏木は振り返ったが、男はそのまま通り過ぎて行ってしまった。 「鹿村さんじゃない?」 と思わず声をあげたが、その男の足並みはまったく変わらなかった。 うつむき加減に2、30メートルを行くと左の小路へ、つと姿を消したのであった。 追いかけようか追いかけまいか、一瞬迷いはしたものの、彼にその意力はなかった。鹿村であるはずがない。じゃあ、あいつの息子だろうか。そんなこともありえない。自分の講義に出ている学生の1人であったかもしれない。あるいは単に相手が勘違いして彼に挨拶したのかもしれなかった。 夏木自身が鹿村の声を電話で最後に聞いたのは、もう10年も前であった。彼が出た学部の卒業名簿を見せてほしいという依頼で、或る女性の住所を確認したいというのであった。少しいかがわしいことのように思えた夏木は、引っ越ししてまもないからそれが見あたらぬとか何とかこじつけて断ったのであった。 或る女性に対する偏愛の兆しは、実は大学時代、鹿村と飲み歩いた頃夏木はすでにうすうす気づいていた。 「塾に来ている臨時の女教師がね、どうも俺に気があるらしい」 「ふふん、そうとどうしてわかるんだ」 「直感だよ、直感。しばしば俺様目当てに待機してんだから。鉢合わせが多いんだよ。こないだも塾の講義を終わって近くのおでん屋に寄ったら、ちゃ んと彼女も来ていた。俺を先回りしていたってわけだ」 「まったく単純だな。そんな偶然は日常あふれるほどある。相手のお嬢さんが気の毒ってもんだ。その人ひとりで来ていたってことはないだろう」 「お相手がいたことはいた」 「じゃあ、アルバイト疲れで夜食が欲しかっただけのことだろう」 「それなら、ひとりで来たはずだ」 「反対じゃないか。職場には女性教師も何人かいるはずだしね」 「いるにはいる。だが、そのとき実は彼女の妹と一緒だった。あとで確認してみたんだ」 「落ち合ったにすぎない。妹と同居しているのかもしれないしな」 「いやいや、俺を妹にそれとなく紹介しようとしたんだと思うんだ。妹に品定めしてもらうつもりだった。2人ともまなざしが鋭かったもんな」 「じゃあ、むしろ敵意じゃないか。君の独りよがりは度が過ぎる。そう思わんのか」 「ふふふふ・・・。お前に言っても、所詮わかるまい。まあ飲めよ」 鹿村は日頃から胃弱を訴えていた。胃下垂さえなければ、自分にはもっと耐久力もあって、こんな劣等生ではすまないとよく愚痴った。身体を鍛えるためだと言っては、安楽なサウナやマッサージにはよく通い、そのための稼ぎという口実で、やたらと家庭教師や塾教員などのアルバイトに奔走していた。 文化系の学部には、長年留年に留年を重ね在籍だけはしていたものの、日常の大半は授業にも出席せず、こういった収入に血道を上げる者もいた。内心いずれ大学は除籍になるものと不安一杯で、ただそれだけに、ひたすらやけになっている面もあった。 「食前酒をとらなくちゃ、飯ものどを通らんのだ」 と気取る割に豪酒の方であったが、これも投げやりな気持がそうさせていた。ふしだらで贅沢な生活だから、もちろん羨望の対象になるものではなく、むしろ悲惨で哀れに見えた。 が、そういった思い出もはるかに遠いものになっていた。 *この続きは製品版でお楽しみください。
【Keyring PDF形式】
※注意 同一の書籍でもファイル形式が異なるものは別商品として取り扱っております。
デジタル初版:2007年4月26日
ジャンル:和書>小説・ノンフィクション>文芸>日本文学:現代小説 著: 成木文 発行: ブイツーソリューション
和書>小説・ノンフィクション>文芸>日本文学:現代小説 |
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