和書>小説・ノンフィクション>歴史・時代小説>一覧
著者プロフィール
滝口 康彦(たきぐち やすひこ)
1929〜2004
佐世保市生まれ。炭鉱で働きながらラジオドラマの台本や小説を発表。1957年から、作家の道へ。1958年にサンデー毎日大衆文芸賞を受賞した「異聞浪人記」が『切腹』(1962)、「拝領妻始末」が『上意討ち−拝領妻始末−』(1967)として、映画化される。「高柳父子」「かげろう記」「霧の底から」「仲秋十五日」「日向延岡のぼり猿」「主家滅ぶべし」で計6回、直木賞候補となる。
1929〜2004
佐世保市生まれ。炭鉱で働きながらラジオドラマの台本や小説を発表。1957年から、作家の道へ。1958年にサンデー毎日大衆文芸賞を受賞した「異聞浪人記」が『切腹』(1962)、「拝領妻始末」が『上意討ち−拝領妻始末−』(1967)として、映画化される。「高柳父子」「かげろう記」「霧の底から」「仲秋十五日」「日向延岡のぼり猿」「主家滅ぶべし」で計6回、直木賞候補となる。
解説
ひっそり暮らす田舎の老爺与茂作に、突然七十万石の太守島津家久から呼び出し命令がきた。「きっとあのことじゃ」と胸に覚えのある与茂作は腰をぬかしそうになる。40年も前の戦場で起きたあの出来事こそ、薩摩武士の酷薄な掟ゆえ秘匿された与茂作の秘密であった。士道の表裏を鮮烈に描く俊英の代表作品集。
目次
薩摩軍法
秋雨の首
仲秋十五日
白梅月夜
鶴姫
かげろう記
奸臣と人のいう
秋雨の首
仲秋十五日
白梅月夜
鶴姫
かげろう記
奸臣と人のいう
抄録
一、一人の敵をも殺したる証拠なきものは死罪、その父子親族は重科に処せらるることあるべし。
一、わが隊将の首級を敵に委すべからず、この仇を報ずるあたわざる時は一隊ことごとく討死せよ。
島津家軍法
鹿児島の西北三里ともいい、あるいは五里ともいう。むかし姫野と呼ばれる小さな村があった。いや、村というより、おそらくは薩摩(さつま)領独自の門割(かどわり)制度による、いわゆる方限(ほうぎり)であったろうか。薩摩では門割の単位となる一戸の農家を家部(かぶ)と称した。その戸主は名子(なご)である。いくつかの家部の集ったものが門(かど)で、門の長(おさ)は名頭(みょうず)もしくは乙名(おとな)といった。方限は門の集ったもので長は名主と呼ばれた。
姫野が今のどのあたりにあるかは明らかでない。ただわかっているのは、ほど遠からぬところに重平山が望まれたことだけである。その姫野に一つの墓があった。墓地にあるのではなかった。姫野の北のはずれ、隣り合った二つの村への岐(わか)れ道近くに一もとの松が枝をひろげていて、墓はその松のかたわらにあった。墓とはいっても、雑草の中にさほど大きくもないありふれた自然石がやや傾きかげんに立っているのみで、石にはなにも刻んでなく、竹の花筒が目に入らなければ、だれ一人墓だとは気づきそうもない。まことに石はひっそりと立っていた。
墓の主がだれなのか村人はまったく知らなかった。古老たちでさえ例外ではなく、知ろうとつとめることも今はないようである。強(し)いていえば、古老たちのうち何人かは、その石がいつごろ、そして、だれの手で立てられたということだけは、おぼろげな記憶の底にとどめていた。もうかれこれ七十に近い、与茂作(よもさく)という老人がいる。墓は与茂作が、まだ若かったころ立てたものであった。
二十三、四のころ、与茂作は、一度村を飛び出している。いや飛び出したといっては嘘になろう。どこかの合戦の折、兵糧運びとしてかり出されたのがきっかけで、そのまま何年も家にはもどらず親もあきらめていた。くわしくはわからぬが、鹿児島衆中(しゅうじゅう)(鹿児島城下の武士)に奉公していたらしい。それがある年ふらっと姫野にもどってくると、間もなく女房をもらい、まっくろになって野良仕事に精を出した。女房はおきよといった。
当の与茂作をのぞけば、石のことを、いつまでも忘れず覚えていたのはおきよであったろう。なんでも、いっしょになっていくらもならぬ十一月の末だった。南国薩摩にはめずらしい寒いある日、与茂作は庄屋に頼まれた用事で鹿児島まで出かけたが、日の暮れがた思いつめたひどく青い顔をしてもどってきた。心配した両親やおきよが、なにかあったのかと問いただしても、いいやと首をふるだけで一向にわけをいおうともしなかった。
*この続きは製品版でお楽しみください。
一、わが隊将の首級を敵に委すべからず、この仇を報ずるあたわざる時は一隊ことごとく討死せよ。
島津家軍法
鹿児島の西北三里ともいい、あるいは五里ともいう。むかし姫野と呼ばれる小さな村があった。いや、村というより、おそらくは薩摩(さつま)領独自の門割(かどわり)制度による、いわゆる方限(ほうぎり)であったろうか。薩摩では門割の単位となる一戸の農家を家部(かぶ)と称した。その戸主は名子(なご)である。いくつかの家部の集ったものが門(かど)で、門の長(おさ)は名頭(みょうず)もしくは乙名(おとな)といった。方限は門の集ったもので長は名主と呼ばれた。
姫野が今のどのあたりにあるかは明らかでない。ただわかっているのは、ほど遠からぬところに重平山が望まれたことだけである。その姫野に一つの墓があった。墓地にあるのではなかった。姫野の北のはずれ、隣り合った二つの村への岐(わか)れ道近くに一もとの松が枝をひろげていて、墓はその松のかたわらにあった。墓とはいっても、雑草の中にさほど大きくもないありふれた自然石がやや傾きかげんに立っているのみで、石にはなにも刻んでなく、竹の花筒が目に入らなければ、だれ一人墓だとは気づきそうもない。まことに石はひっそりと立っていた。
墓の主がだれなのか村人はまったく知らなかった。古老たちでさえ例外ではなく、知ろうとつとめることも今はないようである。強(し)いていえば、古老たちのうち何人かは、その石がいつごろ、そして、だれの手で立てられたということだけは、おぼろげな記憶の底にとどめていた。もうかれこれ七十に近い、与茂作(よもさく)という老人がいる。墓は与茂作が、まだ若かったころ立てたものであった。
二十三、四のころ、与茂作は、一度村を飛び出している。いや飛び出したといっては嘘になろう。どこかの合戦の折、兵糧運びとしてかり出されたのがきっかけで、そのまま何年も家にはもどらず親もあきらめていた。くわしくはわからぬが、鹿児島衆中(しゅうじゅう)(鹿児島城下の武士)に奉公していたらしい。それがある年ふらっと姫野にもどってくると、間もなく女房をもらい、まっくろになって野良仕事に精を出した。女房はおきよといった。
当の与茂作をのぞけば、石のことを、いつまでも忘れず覚えていたのはおきよであったろう。なんでも、いっしょになっていくらもならぬ十一月の末だった。南国薩摩にはめずらしい寒いある日、与茂作は庄屋に頼まれた用事で鹿児島まで出かけたが、日の暮れがた思いつめたひどく青い顔をしてもどってきた。心配した両親やおきよが、なにかあったのかと問いただしても、いいやと首をふるだけで一向にわけをいおうともしなかった。
*この続きは製品版でお楽しみください。




















⇒詳細












