和書>小説・ノンフィクション>文芸>日本文学>現代小説
著者プロフィール
北 杜夫(きた もりお)
本名・斎藤宗吉。昭和2年(1927)、東京に生まれる。父は歌人の斎藤茂吉。昭和23年、旧制松本高校(理乙)卒業。昭和27年、東北大学医学部卒業。神経科専攻。医学博士。昭和35年「夜と霧の隅で」で芥川賞受賞。同時期に「どくとるマンボウ航海記」を刊行、その名を広く知られる。
「どくとるマンボウ青春記」などのマンボウ・シリーズをはじめ、「楡家の人びと」「木精」「怪盗ジバコ」「まっくらけのけ」など著書多数。
本名・斎藤宗吉。昭和2年(1927)、東京に生まれる。父は歌人の斎藤茂吉。昭和23年、旧制松本高校(理乙)卒業。昭和27年、東北大学医学部卒業。神経科専攻。医学博士。昭和35年「夜と霧の隅で」で芥川賞受賞。同時期に「どくとるマンボウ航海記」を刊行、その名を広く知られる。
「どくとるマンボウ青春記」などのマンボウ・シリーズをはじめ、「楡家の人びと」「木精」「怪盗ジバコ」「まっくらけのけ」など著書多数。
解説
「さよう、わたしは一匹のゴキブリである。」―――“わたし”は、船の中で生まれ、海外放浪して暮らしていたが、南洋漁業調査船で乗り合わせた怠け者の船医、目玉医者に興味を覚え、帰国する彼についてゆくことにした。
居候である彼が風変わりな家族たちと共に住む家と、彼の友人でケチの食いしん坊、SF四文作家氏の家庭とを行き来しつつ、人間たちの奇妙な世界を“高みの見物”と洒落こんだ。
居候である彼が風変わりな家族たちと共に住む家と、彼の友人でケチの食いしん坊、SF四文作家氏の家庭とを行き来しつつ、人間たちの奇妙な世界を“高みの見物”と洒落こんだ。
目次
目玉医者
出生を語る
帰港
新しい家
四文(よんもん)作家
さまざまな体験
すし屋にて
ゴキブリ騒動
勝手な生物
念力と見合
ぶっつけ本番
旅支度
船出
船上の事件
出生を語る
帰港
新しい家
四文(よんもん)作家
さまざまな体験
すし屋にて
ゴキブリ騒動
勝手な生物
念力と見合
ぶっつけ本番
旅支度
船出
船上の事件
抄録
わたしはこのとき、四文作家の机の上の天井にへばりついて、彼の執筆ぶりを眺めていた。
わたしのかたわらには、ダストのオデンがいた。彼女も、このごろは人間語もわかってきたし、文字もある程度よめるので、四文作家の書く文字をブツブツ口の中て呟きながら、天井から見下ろしていた。
「作家なんてものは、勝手なことを書くものね」
とか、
「あたしが大分おどかしてやったから、ゴキブリに一目も二目もおいてるわ」
とか呟いていたが、
「ゴキブリは、ゴキブリのように走る」
という文章をよんだとき、彼女はいきなりケラケラと笑いだし、小さな体をゆすって笑いつづけた。ゴキブリの発する波長は人間の耳には聞きとりがたいのだが、私が心配になって声をかけようとしたとき、ダストのオデンはいきなりつかまっていた足をすべらし、真下にむけてポトリと落下して行った。
アッという間もなかった。
ダストのオデンは、真逆さまに、的を射たように、四文作家の目の前にひろげられた原稿用紙の上に落下した。
「ウッ」
とか叫んで、四文作家はとびあがった。
ゴキブリというものはごく身が軽い。天井くらいから落ちたとて、猫と同じように、むろん身体にはひびかぬ筈だ。それなのに、ダストのオデンは、あまりに大口あけて笑っていたためか、ぶざまに仰向けにひっくり返って、足ばかりバタバタやっている。
ようやく起き上がって走りだそうとしたところを、
「オノレ!」
と叫んで、四文作家はそばにあった週刊誌ではたいた。
ダストのオデンは足をどこかやられたらしい。辛うじて四文作家の第二撃をかわすと、机からポトリと床に落ち、本箱のほうへ逃げようとした。
しかし、その足どりは、目に見えてヨタヨタしている。
「おのれ、逃しはせんぞ!」
と、四文作家は剣豪小説にあるようなセリフを叫んだ。
そして、床においてあったカラの丸い紙屑籠を手にとると、それをスッポリとダストのオデンの上にかぶせてしまった。
見ているわたしはヒヤリとした。
四文作家は、手でおさえた紙屑籠のそばに耳をつけるようにし、なかでカサコソ動いている音を聞きとって、
「捕えたぞ。掴まえたぞ。とうとうとらまえたぞ」
と呟いたが、いぶかしげに首をかしげた。
「しかし、選(よ)りに選って、ゴキブリのことを書いている原稿用紙の上に、ゴキブリがちょうど落ちてくるというのはどういうことだろうか」
彼は腕を組み、仁王立ちになったまま思案しているようだった。
それから彼は、天井をも見上げたが、むろんわたしはそのときには本箱の上に移動していて、見つかるようなヘマはしなかった。
四文作家はグルグルと部屋の中を歩きはじめた。
わたしには、彼の思考内容が手にとるようにわかった。
――これは偶然だったのだろうか、と四文作家は考える。
――それとも、このゴキブリの奴は、おれの原稿を盗み見していたのではあるまいか。
――まさか、まさか、そんなバカげた話はない。
――といって、偶然にしてはあまりに偶然すぎる。
あたかも真夜中すぎの時刻で、頭もへんに疲れているし、昼間なら笑ってすませることが、どうも四文作家には不吉にひっかかってきたようだった。
その昼間、彼は目玉医者に、ゴキブリが宇宙人の変形であって、人間をひそかに窺っているのではないか、という冗談を真面目くさって話してやったばかりなのだ。
わたしのかたわらには、ダストのオデンがいた。彼女も、このごろは人間語もわかってきたし、文字もある程度よめるので、四文作家の書く文字をブツブツ口の中て呟きながら、天井から見下ろしていた。
「作家なんてものは、勝手なことを書くものね」
とか、
「あたしが大分おどかしてやったから、ゴキブリに一目も二目もおいてるわ」
とか呟いていたが、
「ゴキブリは、ゴキブリのように走る」
という文章をよんだとき、彼女はいきなりケラケラと笑いだし、小さな体をゆすって笑いつづけた。ゴキブリの発する波長は人間の耳には聞きとりがたいのだが、私が心配になって声をかけようとしたとき、ダストのオデンはいきなりつかまっていた足をすべらし、真下にむけてポトリと落下して行った。
アッという間もなかった。
ダストのオデンは、真逆さまに、的を射たように、四文作家の目の前にひろげられた原稿用紙の上に落下した。
「ウッ」
とか叫んで、四文作家はとびあがった。
ゴキブリというものはごく身が軽い。天井くらいから落ちたとて、猫と同じように、むろん身体にはひびかぬ筈だ。それなのに、ダストのオデンは、あまりに大口あけて笑っていたためか、ぶざまに仰向けにひっくり返って、足ばかりバタバタやっている。
ようやく起き上がって走りだそうとしたところを、
「オノレ!」
と叫んで、四文作家はそばにあった週刊誌ではたいた。
ダストのオデンは足をどこかやられたらしい。辛うじて四文作家の第二撃をかわすと、机からポトリと床に落ち、本箱のほうへ逃げようとした。
しかし、その足どりは、目に見えてヨタヨタしている。
「おのれ、逃しはせんぞ!」
と、四文作家は剣豪小説にあるようなセリフを叫んだ。
そして、床においてあったカラの丸い紙屑籠を手にとると、それをスッポリとダストのオデンの上にかぶせてしまった。
見ているわたしはヒヤリとした。
四文作家は、手でおさえた紙屑籠のそばに耳をつけるようにし、なかでカサコソ動いている音を聞きとって、
「捕えたぞ。掴まえたぞ。とうとうとらまえたぞ」
と呟いたが、いぶかしげに首をかしげた。
「しかし、選(よ)りに選って、ゴキブリのことを書いている原稿用紙の上に、ゴキブリがちょうど落ちてくるというのはどういうことだろうか」
彼は腕を組み、仁王立ちになったまま思案しているようだった。
それから彼は、天井をも見上げたが、むろんわたしはそのときには本箱の上に移動していて、見つかるようなヘマはしなかった。
四文作家はグルグルと部屋の中を歩きはじめた。
わたしには、彼の思考内容が手にとるようにわかった。
――これは偶然だったのだろうか、と四文作家は考える。
――それとも、このゴキブリの奴は、おれの原稿を盗み見していたのではあるまいか。
――まさか、まさか、そんなバカげた話はない。
――といって、偶然にしてはあまりに偶然すぎる。
あたかも真夜中すぎの時刻で、頭もへんに疲れているし、昼間なら笑ってすませることが、どうも四文作家には不吉にひっかかってきたようだった。
その昼間、彼は目玉医者に、ゴキブリが宇宙人の変形であって、人間をひそかに窺っているのではないか、という冗談を真面目くさって話してやったばかりなのだ。
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