和書>小説・ノンフィクション>ボーイズラブ小説>白衣
解説
「性欲に振り回されるなんて有り得ない」精神科医という職業に就いていながら、伏見智紀は「性欲」が認められずにいた。しかし、そんな後ろめたい感情を同僚の加藤に見抜かれてしまう。同じ医者の中でも特に優秀な加藤は、その鋭さと巧みな話術で伏見を追い込んでゆく。「あなたのような、深みにはまるのを嫌う、気高い人をそれ以上の欲望で、ねじ伏せたいと思う人間もいるんですよ」。弱みを握られ従う一方で、加藤の見せる強い支配欲に、抗えなくなってゆく伏見は――……。
目次
黒い愛情
抄録
「待ってください、どこに、行くんですか」
荒い息の下からようやく訊ねたのは、広い公園を抜け出て五分も走った頃だ。汗で背中がぐっしょり濡れ、ワイシャツが張りついて気持ち悪い。急に立ち止まったら膝が萎えて、身体がふらついてしまった。しばしその場でうつむき、深呼吸することを繰り返す。こめかみがどくどくと脈打ち、ひどく頭が痛かった。
「大丈夫ですか」
そう言う加藤も息があがっていたが、自分と比べるとそれほどではない。背中を何度かさすってくれたあと、あたりを見回し、「このへんまで来れば、もう大丈夫か」と呟く。
「俺のマンションがすぐそこにあります。ちょっと寄って休んでいきませんか」
「でも、もう遅い……ですし」
まだ呼吸が整えられないでいると、軽い笑い声が聞こえて背中をやさしくさすられた。
「もしかして、運動不足ですか。お互いにデスクワークが多いですからね。意識して身体を鍛えないと」
「……すみません」
ふたつ年下の相手に口調がどうしても崩せないのは、瀬戸と揉めていたところのどこからどこまでを見られたのだろうという不安と、加藤自身をよく知らないせいだ。
端正な顔立ちにメタルフレームの眼鏡がしっくりとはまり、百七十センチ後半の伏見よりもわずかに高い。先ほど、一発で瀬戸を殴り倒した身体は引き締まり、見るからに敏≪びん≫捷≪しょう≫そうだ。
カウンセラーとしてのプロフィールなら、一応知っている。今年二十八歳になるという加藤は国立大を卒業後アメリカに渡り、世界的に名の知れた精神科医のもとでさらに深みのある心理療法の勉強を重ねてきた。そこでいくつもの資格を取って帰国し、現在では外資系の企業と契約し、多くの顧客を抱える腕利きのキャリアカウンセラーだ。
フラットに出勤するようになってまだ二か月足らずだったと思うが、火、木、金の出勤日はつねに予約で埋まっている。
おおよその経歴は自分と似ているが、大学も、師事した先も、加藤のほうがわずかにレベルが上だ。だが、学歴でひとを測るのは愚かしいとつねづねこころに留めているだけに、加藤の人気ぶりを嫉妬したことはない。
「むりは言いませんがね、シャツが汚れてますよ」
加藤の指摘に慌ててうつむくと、瀬戸と揉み合った際にどこかに擦ったらしいシャツの腹のあたりが汚れていた。ネクタイもぐしゃぐしゃだし、ジャケットの襟も曲がっている。
無言でよじれたネクタイを引っ張り、張りつくシャツにため息をついた。身体中に瀬戸の指の感触が残り、どうにも落ち着かないことを加藤も勘づいたようだ。
「汗もかいてるんでしょう。シャワーぐらい貸しますよ」
「……いいんですか。お言葉に甘えて」
「構いませんよ。ほら、あそこのマンションです。五階に俺の部屋があるんですよ」
東京西側にある自宅に戻るにしても、ここからタクシーで一時間近くかかる。一刻も早く瀬戸の痕跡を洗い流したくて、恐縮しながら加藤に案内されるまま、重厚なマンションのエントランスに足を踏み入れた。
*この続きは製品版でお楽しみください。
荒い息の下からようやく訊ねたのは、広い公園を抜け出て五分も走った頃だ。汗で背中がぐっしょり濡れ、ワイシャツが張りついて気持ち悪い。急に立ち止まったら膝が萎えて、身体がふらついてしまった。しばしその場でうつむき、深呼吸することを繰り返す。こめかみがどくどくと脈打ち、ひどく頭が痛かった。
「大丈夫ですか」
そう言う加藤も息があがっていたが、自分と比べるとそれほどではない。背中を何度かさすってくれたあと、あたりを見回し、「このへんまで来れば、もう大丈夫か」と呟く。
「俺のマンションがすぐそこにあります。ちょっと寄って休んでいきませんか」
「でも、もう遅い……ですし」
まだ呼吸が整えられないでいると、軽い笑い声が聞こえて背中をやさしくさすられた。
「もしかして、運動不足ですか。お互いにデスクワークが多いですからね。意識して身体を鍛えないと」
「……すみません」
ふたつ年下の相手に口調がどうしても崩せないのは、瀬戸と揉めていたところのどこからどこまでを見られたのだろうという不安と、加藤自身をよく知らないせいだ。
端正な顔立ちにメタルフレームの眼鏡がしっくりとはまり、百七十センチ後半の伏見よりもわずかに高い。先ほど、一発で瀬戸を殴り倒した身体は引き締まり、見るからに敏≪びん≫捷≪しょう≫そうだ。
カウンセラーとしてのプロフィールなら、一応知っている。今年二十八歳になるという加藤は国立大を卒業後アメリカに渡り、世界的に名の知れた精神科医のもとでさらに深みのある心理療法の勉強を重ねてきた。そこでいくつもの資格を取って帰国し、現在では外資系の企業と契約し、多くの顧客を抱える腕利きのキャリアカウンセラーだ。
フラットに出勤するようになってまだ二か月足らずだったと思うが、火、木、金の出勤日はつねに予約で埋まっている。
おおよその経歴は自分と似ているが、大学も、師事した先も、加藤のほうがわずかにレベルが上だ。だが、学歴でひとを測るのは愚かしいとつねづねこころに留めているだけに、加藤の人気ぶりを嫉妬したことはない。
「むりは言いませんがね、シャツが汚れてますよ」
加藤の指摘に慌ててうつむくと、瀬戸と揉み合った際にどこかに擦ったらしいシャツの腹のあたりが汚れていた。ネクタイもぐしゃぐしゃだし、ジャケットの襟も曲がっている。
無言でよじれたネクタイを引っ張り、張りつくシャツにため息をついた。身体中に瀬戸の指の感触が残り、どうにも落ち着かないことを加藤も勘づいたようだ。
「汗もかいてるんでしょう。シャワーぐらい貸しますよ」
「……いいんですか。お言葉に甘えて」
「構いませんよ。ほら、あそこのマンションです。五階に俺の部屋があるんですよ」
東京西側にある自宅に戻るにしても、ここからタクシーで一時間近くかかる。一刻も早く瀬戸の痕跡を洗い流したくて、恐縮しながら加藤に案内されるまま、重厚なマンションのエントランスに足を踏み入れた。
*この続きは製品版でお楽しみください。
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