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和書>ビジネス・教育>歴史>歴史(学術・考察)
解説
正体は何か? 緻密な取材と鋭い推理から大胆な「仮説」が浮かび上がる。『日本書紀』は、果たしてどこまで真実を記述し、何を封印してしまったのか? 人気歴史作家が描く、日本史の根幹を揺るがす意外な仮説と、臨場感あふれる再現ドキュメントが、読者を唸らせる。
目次
第1章 解き明かされた邪馬台国の真実
第2章 ヤマト朝廷誕生の謎
第3章 闇に葬られた蘇我入鹿暗殺の真実
第4章 白村江の戦い なぜ日本は暴走したのか
第5章 壬申の乱 世紀の大逆転はなぜ起こったのか
第6章 聖武天皇の豹変 知られざる帝の素顔
第7章 怪僧道鏡の暗躍と称徳天皇ご乱心の謎
第2章 ヤマト朝廷誕生の謎
第3章 闇に葬られた蘇我入鹿暗殺の真実
第4章 白村江の戦い なぜ日本は暴走したのか
第5章 壬申の乱 世紀の大逆転はなぜ起こったのか
第6章 聖武天皇の豹変 知られざる帝の素顔
第7章 怪僧道鏡の暗躍と称徳天皇ご乱心の謎
抄録
邪馬台国論争はなぜ長引くのか
邪馬台国論争はいまだに迷走を続け、「魏志倭人伝」の読み方次第では、邪馬台国はどこにでも比定できるという情けない結論にいたってしまった。そして、日本の歴史の根幹である「邪馬台国からヤマト建国へいたる状況」は、すっかり迷宮入りしてしまったといえよう。
これまでの方法を続けていく限り、邪馬台国の所在地は永遠に特定できないだろう。史学者もうすうす感じている事態である。そこで最近では、進展著しい考古学への期待が高まりつつある。
たとえば、かつて古墳時代の始まりは四世紀のことと信じられてきたが、実際には三世紀の半ば(あるいは初頭)ごろであった疑いもでてきた。三世紀の半ばといえば邪馬台国と同時代である。
古墳時代とは、ようするにヤマトに巨大な前方後円墳が出現し、この新たな埋葬文化が日本各地に受け入れられていく時代であり、ヤマトを中心とする新たな体制が整ったことを意味する。したがって、邪馬台国と畿内のヤマトは同一なのではないかと、考古学者は考え始めたのである。
だが、これもおかしい。
「魏志倭人伝」の記事から邪馬台国の位置は明確にならないとしても、その記述のほとんどが北部九州の博多周辺の沿岸地域に割かれているところに問題がある。西日本の流通を考える上で無視することのできない瀬戸内海や大阪周辺については、沈黙を守っているのはなぜだろう。もし考古学の指摘するように、邪馬台国がヤマトであるとするならば、これはありえない。
三世紀のヤマトに当時最大の都市と国家と呼ぶにふさわしい連合体が生まれつつあったことは間違いない。だからこそこれが邪馬台国にほかならないと一部の考古学者は決めつけるが、日本列島で最大の力を持っていたからといって、それが邪馬台国であったわけではない。
仮に、ヤマトに対抗意識を燃やした勢力が、「私が倭国を代表する邪馬台国です」と魏に報告し、これをあちらが信じていたとすれば、邪馬台国は別に存在していたことになるわけである。
実際、二世紀末から三世紀にかけて、西日本にはおおまかに分けて二つの勢力が存在していたとみて間違いない。そのひとつが畿内のヤマトであり、もうひとつが、北部九州一帯の勢力である。
実をいうと、邪馬台国の時代の西日本を二分する勢力の拮抗こそが、邪馬台国の謎をつくりだし、また逆に、邪馬台国を解く鍵だったのではないかと思いいたる。
*この続きは製品版でお楽しみください。
邪馬台国論争はいまだに迷走を続け、「魏志倭人伝」の読み方次第では、邪馬台国はどこにでも比定できるという情けない結論にいたってしまった。そして、日本の歴史の根幹である「邪馬台国からヤマト建国へいたる状況」は、すっかり迷宮入りしてしまったといえよう。
これまでの方法を続けていく限り、邪馬台国の所在地は永遠に特定できないだろう。史学者もうすうす感じている事態である。そこで最近では、進展著しい考古学への期待が高まりつつある。
たとえば、かつて古墳時代の始まりは四世紀のことと信じられてきたが、実際には三世紀の半ば(あるいは初頭)ごろであった疑いもでてきた。三世紀の半ばといえば邪馬台国と同時代である。
古墳時代とは、ようするにヤマトに巨大な前方後円墳が出現し、この新たな埋葬文化が日本各地に受け入れられていく時代であり、ヤマトを中心とする新たな体制が整ったことを意味する。したがって、邪馬台国と畿内のヤマトは同一なのではないかと、考古学者は考え始めたのである。
だが、これもおかしい。
「魏志倭人伝」の記事から邪馬台国の位置は明確にならないとしても、その記述のほとんどが北部九州の博多周辺の沿岸地域に割かれているところに問題がある。西日本の流通を考える上で無視することのできない瀬戸内海や大阪周辺については、沈黙を守っているのはなぜだろう。もし考古学の指摘するように、邪馬台国がヤマトであるとするならば、これはありえない。
三世紀のヤマトに当時最大の都市と国家と呼ぶにふさわしい連合体が生まれつつあったことは間違いない。だからこそこれが邪馬台国にほかならないと一部の考古学者は決めつけるが、日本列島で最大の力を持っていたからといって、それが邪馬台国であったわけではない。
仮に、ヤマトに対抗意識を燃やした勢力が、「私が倭国を代表する邪馬台国です」と魏に報告し、これをあちらが信じていたとすれば、邪馬台国は別に存在していたことになるわけである。
実際、二世紀末から三世紀にかけて、西日本にはおおまかに分けて二つの勢力が存在していたとみて間違いない。そのひとつが畿内のヤマトであり、もうひとつが、北部九州一帯の勢力である。
実をいうと、邪馬台国の時代の西日本を二分する勢力の拮抗こそが、邪馬台国の謎をつくりだし、また逆に、邪馬台国を解く鍵だったのではないかと思いいたる。
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