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プロジェクトX 挑戦者たち 未来への総力戦 男たち 不屈のドラマ 瀬戸大橋/世紀の難工事に挑む
著: NHK「プロジェクトX」制作班発行: 日本放送出版協会
シリーズ: プロジェクトX 挑戦者たち
価格:105円(税込)
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解説
昭和63年4月、瀬戸内海の大小5つの島を6つの橋で結ぶ、全長9・4キロの瀬戸大橋が完成した。瀬戸大橋は、鉄道と道路が通る橋としては世界で最長を誇っている。
この未曾有の巨大橋建設のきっかけとなったのは、昭和30年に起きた大惨事だった。国鉄の連絡船『紫雲丸』が瀬戸内海に沈み、修学旅行の小中学生100人の命が消えた。「橋さえあれば……」、多くの人々が悲しみに打ちひしがれ、四国と本州を結ぶ「夢の架け橋」は、四国400万人の悲願となった。
この瀬戸大橋建設に挑んだのが、「不可能を可能にする男」と呼ばれた、伝説の技術者・杉田秀夫だった。風速70メートルに匹敵する潮の流れ、暗黒の海底。しかも、瀬戸内海は国際航路で、1日に一〇〇〇隻の船が行き交っていた。工事は、世紀の難工事となった。
そして、1人の男が協力を申し出た。瀬戸内海のことなら何でも知り尽くしている男、ダイバーの飯島靖郎だった。彼は、あの大惨事「紫雲丸沈没事故」で遺体の引き揚げ作業に携わっていた。
相次ぐ実験の失敗、石油ショックによる着工凍結。様々な困難を乗り越え、技術者たちは、瀬戸大橋の建設工事を成し遂げていく。
この未曾有の巨大橋建設のきっかけとなったのは、昭和30年に起きた大惨事だった。国鉄の連絡船『紫雲丸』が瀬戸内海に沈み、修学旅行の小中学生100人の命が消えた。「橋さえあれば……」、多くの人々が悲しみに打ちひしがれ、四国と本州を結ぶ「夢の架け橋」は、四国400万人の悲願となった。
この瀬戸大橋建設に挑んだのが、「不可能を可能にする男」と呼ばれた、伝説の技術者・杉田秀夫だった。風速70メートルに匹敵する潮の流れ、暗黒の海底。しかも、瀬戸内海は国際航路で、1日に一〇〇〇隻の船が行き交っていた。工事は、世紀の難工事となった。
そして、1人の男が協力を申し出た。瀬戸内海のことなら何でも知り尽くしている男、ダイバーの飯島靖郎だった。彼は、あの大惨事「紫雲丸沈没事故」で遺体の引き揚げ作業に携わっていた。
相次ぐ実験の失敗、石油ショックによる着工凍結。様々な困難を乗り越え、技術者たちは、瀬戸大橋の建設工事を成し遂げていく。
目次
一 国鉄連絡船『紫雲丸』沈没事故
ニ プロジェクトは、スタートからつまずいた
三 難航する地元との折衝
四 ケーソン海底設置を成功させよ
ニ プロジェクトは、スタートからつまずいた
三 難航する地元との折衝
四 ケーソン海底設置を成功させよ
抄録
一 国鉄連絡船『紫雲丸』沈没事故
悲願! 瀬戸内海に橋を架ける
日本の上空七〇〇キロメートル。このはるか宇宙からでも、はっきりと見える巨大な建造物がある。全長九・四キロメートルの瀬戸大橋。大小五つの島を六つの橋で結ぶ。瀬戸内海に最初に架かった大橋だ。
昭和六三(一九八八)年、本州と四国を結ぶこの大動脈が完成した。
「この橋のおかげで、ようやく本州と四国が一つになった気がします」
橋を渡る利用者は、瀬戸大橋が広げてくれる世界の大きさを実感している。
瀬戸大橋は、現在でも鉄道と道路が通る橋としては世界で最長を誇っている。岡山県側の下津井瀬戸大橋から香川県側の南備讃瀬戸大橋まで、海峡部九三六七メートル。普通自動車を隙間なく並べると、約二〇〇〇台。六つの橋は三種類の違った形になっている。長い距離に適している吊り橋、美しい姿の斜張橋、三角形を組み合わせて安定した形のトラス橋。橋の選択は、地質・地形などの様々な条件によって決定されている。六つの橋と四つの高架橋からなる瀬戸大橋には、総工費一兆一二〇〇億円という巨費が投じられた。
その三三年前の昭和三〇(一九五五)年、惨事が起きた。国鉄の連絡船が海に沈み、修学旅行の小中学生一〇〇人の命が消えた。「橋さえあれば……」、多くの人々が悲しみに打ちひしがれ、四国と本州を結ぶ「夢の架け橋」は、四国四〇〇万人の悲願となった。
風速七〇メートルに匹敵する潮の流れ、暗黒の海底。しかも瀬戸内海は国際航路で、一日一〇〇〇隻の船が行き交っていた。瀬戸大橋建設は、世紀の難工事となった。そして、そこには「夢の架け橋」建設に挑んだ男たちの不屈の物語があった。
一六八人の命を奪った海難事故
昭和初期、本州と四国をつなぐ交通手段は、岡山と香川を結ぶ国鉄の連絡船だった。利用者は年間四〇〇万人だったが、昭和四〇年代には八〇〇万人に膨らんでいた。国鉄の連絡船は、四国の人々にとって交通手段のほかに重要なライフラインにもなっていた。食料品、農産物、工業製品などの輸送は、年間三〇〇万トンにも及んでいた。
橋建設の話は、明治二二(一八八九)年に遡る。香川県議会議員だった大久保 之丞が香川県と岡山県を結ぶ架橋計画を初めて提唱した。当時は、人々を驚かした大計画だったが、だれもそれが実現できるとは思いもよらなかった。その後、具体的な計画が盛り上がってきたのは、昭和二五(一九五〇)年の「国土総合開発法」制定以降のことである。
昭和二五年には、港まで鉄道のレールが延びて、列車がそのまま連絡船に乗り込めるようになった。四国の人々は、列車に乗ったまま瀬戸内海を渡ることができるようになったのだ。しかし、相変わらずネックになったのは深い霧だった。瀬戸内海は霧が発生しやすい。霧のためにその都度連絡船が欠航した。こんなとき、港の待合所は天候の回復を待つ人たちであふれる。たとえ連絡船が便利になっても、四国は依然として“陸の孤島”だったのである。そんななか、瀬戸内海を橋で結ぶ計画が真剣に議論される決定的な出来事が起こった。
昭和三〇(一九五五)年五月一一日、霧の深い朝だった。高松の港は、いつものように宇高連絡船で本州に渡る人たちでにぎわっていた。
五月は修学旅行のシーズンである。港には瀬戸内海を船で渡ることを楽しみにしていた、四つの小中学校の子どもたち約三〇〇人が待っていた。このなかには、愛媛県東予市立庄内小学校六年の子どもたち七七人もいた。
午前六時四〇分。乗客七八一人を乗せて、国鉄宇高連絡船『紫雲丸』は、高松港を離れた。
紫雲丸の船長は「また霧か……」とつぶやいた。このとき、視界はわずかに一〇〇メートル。白く閉ざされた海のなかを、紫雲丸はいつものように進んでいった。
出港してから、ほんの一六分後のことだった。突然の衝撃が紫雲丸を襲った。同じ国鉄の貨物船『第三宇高丸』と衝突したのである。紫雲丸はわずか四分後に沈没。犠牲者は一六八人にも上る大惨事となった。楽しいはずの修学旅行の船上が、一瞬のうちに惨劇の修羅場へと暗転したのである。
修学旅行生のなかで犠牲になったのは一〇〇人。その多くは泳ぎが不得意だった女の子で、八一人と大半を占めた。
この日の早朝、愛媛県東部の山に囲まれた静かな村で、篠塚正夫とトキヨ夫婦は修学旅行に出かける末娘を見送った。娘は庄内小学校六年生の貞子。初めて渡る本州への旅にはしゃいでいた。
「もう喜び勇んで、行って来ます、ゆうて行きました。玄関開けて。元気でね。ええ見物をして帰りなさいよ。おみやげはそれがおみやげですよと、ゆうてやりました」
トキヨは、そう貞子の様子を振り返る。このとき、夫婦は駆け足で出かける貞子の姿をじっと玄関先で見送りつづけた。
わずか四分間の明暗
貞子は船室で友だちと夢中になって話をしていた。そのとき、激しい衝撃音が聞こえたのだ。貞子の同級生の真鍋寛定は甲板にいた。衝撃音で全身が硬直したように強ばった。
「ドドーンという感じで、船が打ち震えるという感じの衝撃ですからね」
だがこの時点では、真鍋はまさか船が沈もうとしているとは思いもよらなかった。このとき、船員がやって来て、「船は沈みませんから。皆さん、船室のなかで静かに待っといてください」と指示して回ったからだ。
この指示に従って、貞子たち女の子の多くは船室でじっと待っていた。
「そうするうちに、船が次第次第に傾き出して、甲板にいるとずり落ちそうになるんです」
男の子の多くは、衝突したあと、現場を「見に行ってみよう」と、甲板に集まりだしていた。それが幸いして、船が傾きだしたときにも脱出が可能だった。しかし、船室にいた貞子たちは、脱出の機会を失ってしまった。紫雲丸は衝突してから、わずか四分間という短い時間で沈没してしまったのだから。
「貧しかった時代でした。でも、修学旅行は子どもにとって唯一ともいえる楽しみだから、親は無理をして行かせてくれたんです。友だちの多くが、何が何だかわからないままに亡くなりました。ショックでした。楽しい修学旅行で、なんでこんなことが起こるんだろうって」
*この続きは製品版でお楽しみください。
悲願! 瀬戸内海に橋を架ける
日本の上空七〇〇キロメートル。このはるか宇宙からでも、はっきりと見える巨大な建造物がある。全長九・四キロメートルの瀬戸大橋。大小五つの島を六つの橋で結ぶ。瀬戸内海に最初に架かった大橋だ。
昭和六三(一九八八)年、本州と四国を結ぶこの大動脈が完成した。
「この橋のおかげで、ようやく本州と四国が一つになった気がします」
橋を渡る利用者は、瀬戸大橋が広げてくれる世界の大きさを実感している。
瀬戸大橋は、現在でも鉄道と道路が通る橋としては世界で最長を誇っている。岡山県側の下津井瀬戸大橋から香川県側の南備讃瀬戸大橋まで、海峡部九三六七メートル。普通自動車を隙間なく並べると、約二〇〇〇台。六つの橋は三種類の違った形になっている。長い距離に適している吊り橋、美しい姿の斜張橋、三角形を組み合わせて安定した形のトラス橋。橋の選択は、地質・地形などの様々な条件によって決定されている。六つの橋と四つの高架橋からなる瀬戸大橋には、総工費一兆一二〇〇億円という巨費が投じられた。
その三三年前の昭和三〇(一九五五)年、惨事が起きた。国鉄の連絡船が海に沈み、修学旅行の小中学生一〇〇人の命が消えた。「橋さえあれば……」、多くの人々が悲しみに打ちひしがれ、四国と本州を結ぶ「夢の架け橋」は、四国四〇〇万人の悲願となった。
風速七〇メートルに匹敵する潮の流れ、暗黒の海底。しかも瀬戸内海は国際航路で、一日一〇〇〇隻の船が行き交っていた。瀬戸大橋建設は、世紀の難工事となった。そして、そこには「夢の架け橋」建設に挑んだ男たちの不屈の物語があった。
一六八人の命を奪った海難事故
昭和初期、本州と四国をつなぐ交通手段は、岡山と香川を結ぶ国鉄の連絡船だった。利用者は年間四〇〇万人だったが、昭和四〇年代には八〇〇万人に膨らんでいた。国鉄の連絡船は、四国の人々にとって交通手段のほかに重要なライフラインにもなっていた。食料品、農産物、工業製品などの輸送は、年間三〇〇万トンにも及んでいた。
橋建設の話は、明治二二(一八八九)年に遡る。香川県議会議員だった大久保 之丞が香川県と岡山県を結ぶ架橋計画を初めて提唱した。当時は、人々を驚かした大計画だったが、だれもそれが実現できるとは思いもよらなかった。その後、具体的な計画が盛り上がってきたのは、昭和二五(一九五〇)年の「国土総合開発法」制定以降のことである。
昭和二五年には、港まで鉄道のレールが延びて、列車がそのまま連絡船に乗り込めるようになった。四国の人々は、列車に乗ったまま瀬戸内海を渡ることができるようになったのだ。しかし、相変わらずネックになったのは深い霧だった。瀬戸内海は霧が発生しやすい。霧のためにその都度連絡船が欠航した。こんなとき、港の待合所は天候の回復を待つ人たちであふれる。たとえ連絡船が便利になっても、四国は依然として“陸の孤島”だったのである。そんななか、瀬戸内海を橋で結ぶ計画が真剣に議論される決定的な出来事が起こった。
昭和三〇(一九五五)年五月一一日、霧の深い朝だった。高松の港は、いつものように宇高連絡船で本州に渡る人たちでにぎわっていた。
五月は修学旅行のシーズンである。港には瀬戸内海を船で渡ることを楽しみにしていた、四つの小中学校の子どもたち約三〇〇人が待っていた。このなかには、愛媛県東予市立庄内小学校六年の子どもたち七七人もいた。
午前六時四〇分。乗客七八一人を乗せて、国鉄宇高連絡船『紫雲丸』は、高松港を離れた。
紫雲丸の船長は「また霧か……」とつぶやいた。このとき、視界はわずかに一〇〇メートル。白く閉ざされた海のなかを、紫雲丸はいつものように進んでいった。
出港してから、ほんの一六分後のことだった。突然の衝撃が紫雲丸を襲った。同じ国鉄の貨物船『第三宇高丸』と衝突したのである。紫雲丸はわずか四分後に沈没。犠牲者は一六八人にも上る大惨事となった。楽しいはずの修学旅行の船上が、一瞬のうちに惨劇の修羅場へと暗転したのである。
修学旅行生のなかで犠牲になったのは一〇〇人。その多くは泳ぎが不得意だった女の子で、八一人と大半を占めた。
この日の早朝、愛媛県東部の山に囲まれた静かな村で、篠塚正夫とトキヨ夫婦は修学旅行に出かける末娘を見送った。娘は庄内小学校六年生の貞子。初めて渡る本州への旅にはしゃいでいた。
「もう喜び勇んで、行って来ます、ゆうて行きました。玄関開けて。元気でね。ええ見物をして帰りなさいよ。おみやげはそれがおみやげですよと、ゆうてやりました」
トキヨは、そう貞子の様子を振り返る。このとき、夫婦は駆け足で出かける貞子の姿をじっと玄関先で見送りつづけた。
わずか四分間の明暗
貞子は船室で友だちと夢中になって話をしていた。そのとき、激しい衝撃音が聞こえたのだ。貞子の同級生の真鍋寛定は甲板にいた。衝撃音で全身が硬直したように強ばった。
「ドドーンという感じで、船が打ち震えるという感じの衝撃ですからね」
だがこの時点では、真鍋はまさか船が沈もうとしているとは思いもよらなかった。このとき、船員がやって来て、「船は沈みませんから。皆さん、船室のなかで静かに待っといてください」と指示して回ったからだ。
この指示に従って、貞子たち女の子の多くは船室でじっと待っていた。
「そうするうちに、船が次第次第に傾き出して、甲板にいるとずり落ちそうになるんです」
男の子の多くは、衝突したあと、現場を「見に行ってみよう」と、甲板に集まりだしていた。それが幸いして、船が傾きだしたときにも脱出が可能だった。しかし、船室にいた貞子たちは、脱出の機会を失ってしまった。紫雲丸は衝突してから、わずか四分間という短い時間で沈没してしまったのだから。
「貧しかった時代でした。でも、修学旅行は子どもにとって唯一ともいえる楽しみだから、親は無理をして行かせてくれたんです。友だちの多くが、何が何だかわからないままに亡くなりました。ショックでした。楽しい修学旅行で、なんでこんなことが起こるんだろうって」
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