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宮本武蔵(一)

宮本武蔵(一)

著: 吉川英治
発行: 講談社
シリーズ: 吉川英治 宮本武蔵吉川英治歴史時代文庫
価格:630円(税込)
10ポイント還元
形式:ドットブック形式⇒詳細 
対応端末:パソコン 
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著者プロフィール

 吉川 英治(よしかわ えいじ)
 1892年8月11日、神奈川県生まれ。高等小学校中退後、さまざまな職を転々としながら、独学で詩や小説を書いていた。1914年、講談社系諸雑誌の懸賞小説に入選した後、『鳴門秘帖』で時代小説作家としての地位を確立。1960年、文化勲章受章。吉川英治文化賞・同文学賞が設けられる。1962年没。長編約80編、短編約180編という膨大な小説を執筆し、国民文学作家と親しまれた。東京青梅市に吉川英治記念館がある。

解説

 野に伏す獣の野性をもって孤剣をみがいた武蔵が、剣の精進、魂の求道を通して、鏡のように澄明な境地へ達する道程を描く、畢生の代表作。
 若い功名心に燃えて関ケ原の合戦にのぞんだ武蔵(たけぞう)と又八は、敗軍の兵として落ちのびる途中、お甲・朱実母子の世話になる。それから一年、又八の母お杉と許嫁のお通が、二人の安否を気づかっている作州宮本村へ、武蔵は一人で帰ってきた。

目次


 序
 はしがき――「旧序抄の」
 旧序


地の巻
 鈴
 毒茸
 おとし櫛
 花御堂
 野の人たち
 茨
 孫子
 縛り笛
 千年杉
 樹石問答
 三日月茶屋
 弱い武蔵
 光明蔵
 花田橋


水の巻
 吉岡染
 陽なた・陽かげ
 優曇華
 坂
 河っ童
 春風便
 巡りぞ会わん
 茶漬

抄録

 ――どうなるものか、この天地の大きな動きが。
 もう人間の個々の振舞いなどは、秋かぜの中の一片の木の葉でしかない。なるようになッてしまえ。
 武蔵(たけぞう)は、そう思った。
 屍(かばね)と屍のあいだにあって、彼も一個の屍かのように横たわったまま、そう観念していたのである。
「――今、動いてみたッて、仕方がない」
 けれど、実は、体力そのものが、もうどうにも動けなかったのである。武蔵自身は、気づいていないらしいが、体のどこかに、二つ三つ、銃弾(たま)が入っているに違いなかった。
 ゆうべ。――もっと詳しくいえば、慶長五年の九月十四日の夜半(よなか)から明け方にかけて、この関ケ原地方へ、土砂ぶりに大雨を落した空は、今日の午(ひる)すぎになっても、まだ低い密雲を解(と)かなかった。そして伊吹山(いぶきやま)の背や、美濃(みの)の連山を去来するその黒い迷雲から時々、サアーッと四里四方にもわたる白雨が激戦の跡を洗ってゆく。
 その雨は、武蔵(たけぞう)の顔にも、そばの死骸にも、ばしゃばしゃと落ちた。武蔵は、鯉のように口を開いて、鼻ばしらから垂れる雨を舌へ吸いこんだ。
 ――末期(まつご)の水だ。
 痺(しび)れた頭のしんで、かすかに、そんな気もする。
 戦いは、味方の敗けと決まった。金吾中納言秀秋(きんごちゆうなごんひであき)が敵に内応して、東軍とともに、味方の石田三成をはじめ、浮田(うきた)、島津、小西などの陣へ、逆(さか)さに戈(ほこ)を向けて来た一転機からの総くずれであった。たった半日で、天下の持主は定まったといえる。同時に、何十万という同胞(どうぼう)の運命が、眼に見えず、刻々とこの戦場から、子々孫々までの宿命を作られてゆくのであろう。
「俺も、……」
 と、武蔵は思った。故郷(くに)に残してある一人の姉や、村の年老(としより)などのことをふと瞼(まぶた)に泛(うか)べたのである。どうしてであろう、悲しくもなんともない。死とは、こんなものだろうかと疑った。だが、その時、そこから十歩ほど離れた所の味方の死骸の中から、一つの死骸と見えたものが、ふいに、首をあげて、
「武(たけ)やアん!」
 と、呼んだので、彼の眼は、仮死から覚めたように見まわした。
 槍一本かついだきりで、同じ村を飛び出し、同じ主人の軍隊に従(つ)いて、お互いが若い功名心に燃え合いながら、この戦場へ共に来て戦っていた友達の又八(またはち)なのである。
 その又八も十七歳、武蔵(たけぞう)も十七歳であった。
「おうっ。又(また)やんか」
 答えると、雨の中で、
「武やん生きてるか」
 と、彼方(むこう)で訊く。
 武蔵は精いッぱいな声でどなった。
「生きてるとも、死んでたまるか。又やんも、死ぬなよ、犬死するなっ」
「くそ、死ぬものか」
 友の側へ、又八は、やがて懸命に這って来た。そして、武蔵の手をつかんで、
「逃げよう」
 と、いきなりいった。
 すると武蔵は、その手を、反対に引っぱり寄せて、叱るように、
「――死んでろっ、死んでろっ、まだ、あぶない」
 その言葉が終らないうちであった。二人の枕としている大地が、釜のように鳴り出した。真っ黒な人馬の横列が、喊声(とき)をあげて、関ケ原の中央(まんなか)を掃きながら、此方(こなた)へ殺到して来るのだった。
 旗差物(はたさしもの)を見て、又八が、
「あっ、福島の隊だ」
 あわて出したので、武蔵はその足首をつかんで、引き仆した。
「ばかっ、死にたいか」
 ――一瞬の後だった。
 泥によごれた無数の軍馬の脛(すね)が、織機(はた)のように脚速(きやくそく)をそろえて、敵方の甲冑武者(かつちゆうむしや)を騎(の)せ、長槍や陣刀を舞わせながら、二人の顔の上を、躍りこえ、躍りこえして、駈け去った。
 又八は、じっと俯(う)ッ伏したきりでいたが、武蔵は大きな眼をあいて、精悍(せいかん)な動物の腹を、何十となく、見ていた。

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