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和書>小説・ノンフィクション>歴史・時代小説>一覧
吉川 英治(よしかわ えいじ) 1892年8月11日、神奈川県生まれ。高等小学校中退後、さまざまな職を転々としながら、独学で詩や小説を書いていた。1914年、講談社系諸雑誌の懸賞小説に入選した後、『鳴門秘帖』で時代小説作家としての地位を確立。1960年、文化勲章受章。吉川英治文化賞・同文学賞が設けられる。1962年没。長編約80編、短編約180編という膨大な小説を執筆し、国民文学作家と親しまれた。東京青梅市に吉川英治記念館がある。
沢庵の温かい計らいで、武蔵は剣の修行に専念することを得た。可憐なお通を突き放してまで、彼が求めた剣の道とは? だが、京畿に剣名高い吉岡一門の腐敗ぶり。大和の宝蔵院で味わった敗北感、剣の王城を自負する柳生の庄で身に沁みた挫折感。武蔵の行く手は厳しさを増す。一方、又八は堕ちるところまで堕ちて、偶然手にいれた印可目録から、佐々木小次郎を名乗ったりする。
水の巻(つづき) 奈良の宿 般若野 この一国 芍薬の使者 四高弟 円座 太郎 心火 鶯 女の道 火の巻 西瓜 佐々木小次郎 狐雨 幻術 怨敵 美少年 わすれ貝 無常 旧約 物干竿 山川無限
「敗(ま)けた。おれは敗(やぶ)れた」 暗い杉林の中の小道を、武蔵はこう独り呟(つぶや)きながら帰って行く。 時折、杉の木蔭を、迅(はや)い影が横に跳ぶ。彼の跫音(あしおと)におどろいて駈ける鹿の群れだった。 「強いことにおいておれは勝っている。――しかし敗けたような気持を負って宝蔵院の門を出てきた。――形では勝ったが敗けている証拠ではないか」 甘んじられない容子(ようす)なのである。むしろ無念らしく、未熟者未熟者と、自分を罵(ののし)りながら歩いているかのように、うつつに歩いていた。 「あ」 何か思い出したのであろう、立ちどまって振り向いた。宝蔵院の灯は、まだ後ろに見えていた。 駈け戻って、今出て来た玄関に立ち、 「ただ今の、宮本でござるが」 「ほう」 と、玄関坊(げんかんぼう)が顔を出し、 「なんぞお忘れ物か」 「明日(あす)か明後日(あさつて)あたり、私をたずねて、当院へ聞きに参る者があるはずですが、もしその者が見えたときは、宮本は当所の猿沢(さるさわ)の池のあたりにわらじを解(と)いているゆえ、あの辺の旅籠(はたご)の軒を見て歩け、とお伝えを願いたいのです」 「ああ、左様か」 うわの空な返辞なので、武蔵は心もとなく思い、 「ここへ後から尋ねて来る者は、城太郎(じようたろう)と申して、まだ年端(としは)のゆかぬ少年ですから、どうぞ慥(しか)とお伝え願いまする」 いいおいて、元の道をまた大股に引き返しながら、武蔵はつぶやいた。 「やはり、敗(ま)けているのだ。――城太郎の言伝(ことづ)てをいい忘れて出て来ただけでも、おれはあの老僧の日観(につかん)に敗けを負わされて戻っている!」 どうしたら天下無敵の剣になれるか。武蔵は、寝ても醒(さ)めても、病(やまい)のように取り憑(つ)かれているのである。 この剣、この一剣。 勝って帰る宝蔵院から、どうして、この苦(にが)い自分の未熟さが、こびりついて来るのだろう。 何としても、楽しめない気持らしい。 怏々(おうおう)と、惑(まど)いながら、彼の脚はもう猿沢の池畔(ちはん)へ出ていた。 この池を中心に、狭井川(さいがわ)の下流(しも)へかけて、天正ごろから殖(ふ)えた新しい民家が乱雑に建てこんでいた。つい近年、徳川家の手代(てだい)大久保長安(おおくぼながやす)が、奈良奉行所を設けた一廓も近くであるし、中華の帰化人で林和靖(りんなせい)の後裔だという者が店をひらいた宗因饅頭(そういんまんじゆう)もよく売れるとみえ、池へ向って店をひろげている。 そこらのまばらな宵の燈(あかり)を見ると、武蔵は足をとめて、どこに泊ったものか、旅籠(はたご)に迷った。旅籠はいくらもあるらしいが、路銀の都合もあるし、そうかといって、あまり場末や路地の木賃(きちん)では、後から捜して来る城太郎にわかりにくかろう。 今し方、宝蔵院で接待にあずかって来たばかりであるが、宗因饅頭の前を通ると、武蔵は食慾をおぼえた。 腰かけへ立ち寄って、饅頭を一盆とってみる。饅頭の皮には「林」の字が焼いてあった。ここで食べる饅頭の味は、宝蔵院で食べた瓜漬の味のように舌にわからないことはなかった。 「旦那さま、今夜はどちらへお泊りでございますか」 そこの茶汲み女に話しかけられたのを幸いに、わけを話して計(はか)ってみると、それなら店の身寄りの者が内職に宿屋をしているちょうどよい家があります、ぜひそこへ泊っていただきたい、ただ今主人を呼んで参りますからと、まだ武蔵が泊るとも何ともいわないうちに、もう奥へ走って、青眉(あおまゆ)の若女房を呼び出して来た。
【XMDF形式】
【ドットブック形式】
※注意 同一の書籍でもファイル形式が異なるものは別商品として取り扱っております。
デジタル初版:2004年5月13日
ジャンル:和書>小説・ノンフィクション>歴史・時代小説>一覧 著: 吉川英治 発行: 講談社 シリーズ: 吉川英治 宮本武蔵、 吉川英治歴史時代文庫
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