和書>小説・ノンフィクション>文芸>日本文学>現代小説
著者プロフィール
中島 らも(なかじま らも)
1952年4月3日、兵庫県尼崎市生まれ。大阪芸術大学放送学科卒業。
コピーライターなどを経て1986年、エッセイ「頭の中がカユいんだ」を発表し文筆活動に入る。1992年「今夜、すべてのバーで」で吉川英治文学新人賞を受賞。1994年「ガダラの豚」で日本推理作家協会賞受賞。1984年から10年間、「朝日新聞」で「明るい悩み相談室」を連載。小説・エッセイ・脚本はもとより、講演・ライブ活動と、幅広く活躍。2004年逝去。
1952年4月3日、兵庫県尼崎市生まれ。大阪芸術大学放送学科卒業。
コピーライターなどを経て1986年、エッセイ「頭の中がカユいんだ」を発表し文筆活動に入る。1992年「今夜、すべてのバーで」で吉川英治文学新人賞を受賞。1994年「ガダラの豚」で日本推理作家協会賞受賞。1984年から10年間、「朝日新聞」で「明るい悩み相談室」を連載。小説・エッセイ・脚本はもとより、講演・ライブ活動と、幅広く活躍。2004年逝去。
解説
薄紫の香腺液の結晶を、澄んだ水に落とす。甘酸っぱく、すがすがしい香りがひろがり、それを一口ふくむと、口の中で冷たい玉がはじけるような……。アルコールにとりつかれた男・小島容《いるる》が往き来する、幻覚の世界と妙に覚めた日常そして周囲の個性的な人々を描いた傑作長篇小説。吉川英治文学新人賞受賞作。
目次
〈一〉〜〈二十〉
久里浜式アルコール依存症スクリーニング・テスト
引用文献・参考文献
久里浜式アルコール依存症スクリーニング・テスト
引用文献・参考文献
抄録
「普段からこんな色なんですか、あんたの目」
医者がおれの上下のまぶたを裏返してのぞき込む。
「はあ。ま、どっちかっていうと濁ってるほうですが。でも、すこし黄色っぽいかな」
「“すこし”じゃないでしょう。顔の色だってほら、まっ黄色だ」
「黄色人種だからね」
おれは口をきくのもだるかったのだが、癖で軽口を叩いてしまった。
「冗談言ってる場合じゃない。黄疸(おうだん)だよ、これは」
年配の看護婦が、さっき取ったばかりのおれの血液検査の結果を持ってきて医師に渡した。医者は鼻眼鏡の奥の、糸のような目で検査用紙を見ている。おれもその紙をのぞこうとしたら、ついっと紙を立てて隠した。
そして、その用紙越しに医者はおれの顔を二、三秒、黙ってながめた。
「あなた。この病院まで独(ひと)りで来たの?」
「はい」
「よく歩いてこられたね」
「は。じゃっかん、つらかったです。だるくて……」
「生きてるのが不思議なくらいの数字だよ、これは。γ(ガンマ)GTPが一三〇〇だって……いったいどれくらい飲んだんだ」
「一本くらいですね」
「毎日かね」
「毎日です」
「それを何年くらい」
「十八からですからね。十七年くらいかな」
医者はため息をついて、カルテにその数量を書き込んだ。
「入院してもらいますよ、気の毒ですがね」
少しも気の毒なことなんかあるものか。とにかく、一分でも早くベッドの上に倒れ込みたいのだ。
「ちょうどあと一時間ほどで相部屋のベッドが空(あ)くからね。準備があったらすませて、二時以降にもう一度この受け付けへ来てください」
「わかりました」
おれは、のろのろとした足取りで、とりあえず消毒薬臭い病院の建物から外へ出ることにした。この市立病院の前にかなり広い公園がある。そのベンチで横になる腹だ。
公園には車椅子に座った婆さんが一人。皮膚病やみの犬が一匹。砂場で一歳くらいの男の子が母親に見守られてよちよち歩きをしている。
おれはベンチにへたり込むと、椅子の背に首をあずけて足を投げ出した。
十月の遠くて澄んだ空が目に飛び込んできた。すっかり緑の褪(あ)せた樹々の葉が風に揺れている。少し、寒い。
ゆっくりと見まわすと、公園の樹々の向こうに、道ひとつ隔てて酒屋があるのが見えた。
「おやおや。“最後の一杯”をやれってことかよ」
おれは苦笑いした。アルコールの神さまにしては乙(おつ)な趣向だ。膝(ひざ)に両手を当てて立ち上がり、酒屋の自動販売機に向かって歩いた。
あいにくウィスキーのポケットビンは自販機にない。かといって、黄疸まる出しの顔で店内にはいって店員に笑われるのはいやだ。ジーンズのポケットからあるだけの小銭を出して、ワンカップを二本買う。
もとのベンチにもどって、ワンカップのキャップをはずす。
「おさまってくれるだろうか。吐いちまわないだろうか」
すこし心配だ。ここ何日も、飲んでは吐きのくりかえしだったのだ。
一口、ふくんでみる。口腔をピリピリさせたあと、酒は細い蛇(へび)のように食道をおりていく。だいじょうぶだ。一息で残りを飲んでしまう。電熱コイルにスイッチがはいった感じで、胃の腑(ふ)と食道に、ぽっと灯(ひ)が点(とも)る。
二本目のワンカップのキャップをはがす。
これがとうとうこの世で最後の一杯なのか、と思うと、ついガラスの中の液体をながめてしまう。別に感傷的になったわけではない。「性悪女(しようわるおんな)」の顔を、別れる前にもう一度拝んでおこう、といったところだ。
おれの身体の症状のことごとく、くっきりした矢印で「肝硬変」をさし示している。生きてこの病院を出られる気が、どうもしない。そんなになったのも、もとはと言えばこの「性悪女」の……。愛(いと)しさ半分憎さ半分のまなざしでにらんでみるのだが、どうも勝手がちがう。清酒は、あくまでその名のごとく玲瓏(れいろう)と澄みきって優しい香気を放っている。
「そうだな。女の悪口はやめよう。長い間、世話にもなったし、いい夢も見させてくれたんだ」
おれは卑怯(ひきよう)を恥じて、その「福娘」にあやまった。あやまりつつ、ワンカップに何度も深いキスをし、彼女を少しずつ飲みくだした。
公園はしんと静まり返ったままで、ときおり遠い車のクラクション、地を舞う鳩(はと)の羽音。
車椅子の婆さんはあいかわらず陽(ひ)をざらざらあびたまま、動かない。
砂場の小さな男の子は、何度転んでも泣かずに、キャッキャと笑っている。
水蜜桃(すいみつとう)の頬。白目の色が湖底のように蒼(あお)い。
砂だらけの膝で立ち上がったその子と目が合ったおれは、「お猿の顔」をしてやった。男の子はくっくっ笑った。おれは手を振ってやった。男の子もこちらに手を振った。若い母親は、おれを見て、あいまいな笑みを浮かべている。
おれは頭の中で坊やに話しかけた。
“ほら、ぼく見てごらん。おさるさんだぞ。まっ黄っ黄のおさるさん、イエローモンキーだぞ。おとなになってお酒を飲むと、いろんな色になるんだぞ。赤くなったり青くなったり黄色くなったり土色になったり。おじさんだって子供の頃はぼくといっしょで桃みたいな色してたんだけどな”
若い母親は、おれがじっと坊やを見つめているので危険を感じたのだろう。子供の手を引っ張ってそそくさと帰る態勢にはいった。坊やはニコニコとおれに手をふって“バイバイ”と言った。
おれはワンカップの底に残った酒を一気に飲み干して、立ち上がった。立った拍子に、胃の奥から吐き気もいっしょにゆらりと立ち上がったような気がした。喉元(のどもと)にせり上がってくる酸(す)っぱい気配を、あわてて飲みくだす。
病院へ戻り、入院の手続きをすませる。
部屋は二階だ。階段がやけに長く、永久に続くように思われた。
案内されたのは五人部屋で、すでに先住人が四人、寝たり座ったりしている。八十歳に近そうな老人が二人。四十がらみの鉛色(なまりいろ)の顔をした男、それにもう一人はまだ十六、七の少年だ。
それぞれに目顔であいさつをする。
おれのベッドは窓際にあって、バリッとした白く清潔そうなシーツがかけられていた。
それを見たとたん、体力気力の糸が切れた。
棒っきれのように横たわる。
シーツは日なたの匂いがした。
医者がおれの上下のまぶたを裏返してのぞき込む。
「はあ。ま、どっちかっていうと濁ってるほうですが。でも、すこし黄色っぽいかな」
「“すこし”じゃないでしょう。顔の色だってほら、まっ黄色だ」
「黄色人種だからね」
おれは口をきくのもだるかったのだが、癖で軽口を叩いてしまった。
「冗談言ってる場合じゃない。黄疸(おうだん)だよ、これは」
年配の看護婦が、さっき取ったばかりのおれの血液検査の結果を持ってきて医師に渡した。医者は鼻眼鏡の奥の、糸のような目で検査用紙を見ている。おれもその紙をのぞこうとしたら、ついっと紙を立てて隠した。
そして、その用紙越しに医者はおれの顔を二、三秒、黙ってながめた。
「あなた。この病院まで独(ひと)りで来たの?」
「はい」
「よく歩いてこられたね」
「は。じゃっかん、つらかったです。だるくて……」
「生きてるのが不思議なくらいの数字だよ、これは。γ(ガンマ)GTPが一三〇〇だって……いったいどれくらい飲んだんだ」
「一本くらいですね」
「毎日かね」
「毎日です」
「それを何年くらい」
「十八からですからね。十七年くらいかな」
医者はため息をついて、カルテにその数量を書き込んだ。
「入院してもらいますよ、気の毒ですがね」
少しも気の毒なことなんかあるものか。とにかく、一分でも早くベッドの上に倒れ込みたいのだ。
「ちょうどあと一時間ほどで相部屋のベッドが空(あ)くからね。準備があったらすませて、二時以降にもう一度この受け付けへ来てください」
「わかりました」
おれは、のろのろとした足取りで、とりあえず消毒薬臭い病院の建物から外へ出ることにした。この市立病院の前にかなり広い公園がある。そのベンチで横になる腹だ。
公園には車椅子に座った婆さんが一人。皮膚病やみの犬が一匹。砂場で一歳くらいの男の子が母親に見守られてよちよち歩きをしている。
おれはベンチにへたり込むと、椅子の背に首をあずけて足を投げ出した。
十月の遠くて澄んだ空が目に飛び込んできた。すっかり緑の褪(あ)せた樹々の葉が風に揺れている。少し、寒い。
ゆっくりと見まわすと、公園の樹々の向こうに、道ひとつ隔てて酒屋があるのが見えた。
「おやおや。“最後の一杯”をやれってことかよ」
おれは苦笑いした。アルコールの神さまにしては乙(おつ)な趣向だ。膝(ひざ)に両手を当てて立ち上がり、酒屋の自動販売機に向かって歩いた。
あいにくウィスキーのポケットビンは自販機にない。かといって、黄疸まる出しの顔で店内にはいって店員に笑われるのはいやだ。ジーンズのポケットからあるだけの小銭を出して、ワンカップを二本買う。
もとのベンチにもどって、ワンカップのキャップをはずす。
「おさまってくれるだろうか。吐いちまわないだろうか」
すこし心配だ。ここ何日も、飲んでは吐きのくりかえしだったのだ。
一口、ふくんでみる。口腔をピリピリさせたあと、酒は細い蛇(へび)のように食道をおりていく。だいじょうぶだ。一息で残りを飲んでしまう。電熱コイルにスイッチがはいった感じで、胃の腑(ふ)と食道に、ぽっと灯(ひ)が点(とも)る。
二本目のワンカップのキャップをはがす。
これがとうとうこの世で最後の一杯なのか、と思うと、ついガラスの中の液体をながめてしまう。別に感傷的になったわけではない。「性悪女(しようわるおんな)」の顔を、別れる前にもう一度拝んでおこう、といったところだ。
おれの身体の症状のことごとく、くっきりした矢印で「肝硬変」をさし示している。生きてこの病院を出られる気が、どうもしない。そんなになったのも、もとはと言えばこの「性悪女」の……。愛(いと)しさ半分憎さ半分のまなざしでにらんでみるのだが、どうも勝手がちがう。清酒は、あくまでその名のごとく玲瓏(れいろう)と澄みきって優しい香気を放っている。
「そうだな。女の悪口はやめよう。長い間、世話にもなったし、いい夢も見させてくれたんだ」
おれは卑怯(ひきよう)を恥じて、その「福娘」にあやまった。あやまりつつ、ワンカップに何度も深いキスをし、彼女を少しずつ飲みくだした。
公園はしんと静まり返ったままで、ときおり遠い車のクラクション、地を舞う鳩(はと)の羽音。
車椅子の婆さんはあいかわらず陽(ひ)をざらざらあびたまま、動かない。
砂場の小さな男の子は、何度転んでも泣かずに、キャッキャと笑っている。
水蜜桃(すいみつとう)の頬。白目の色が湖底のように蒼(あお)い。
砂だらけの膝で立ち上がったその子と目が合ったおれは、「お猿の顔」をしてやった。男の子はくっくっ笑った。おれは手を振ってやった。男の子もこちらに手を振った。若い母親は、おれを見て、あいまいな笑みを浮かべている。
おれは頭の中で坊やに話しかけた。
“ほら、ぼく見てごらん。おさるさんだぞ。まっ黄っ黄のおさるさん、イエローモンキーだぞ。おとなになってお酒を飲むと、いろんな色になるんだぞ。赤くなったり青くなったり黄色くなったり土色になったり。おじさんだって子供の頃はぼくといっしょで桃みたいな色してたんだけどな”
若い母親は、おれがじっと坊やを見つめているので危険を感じたのだろう。子供の手を引っ張ってそそくさと帰る態勢にはいった。坊やはニコニコとおれに手をふって“バイバイ”と言った。
おれはワンカップの底に残った酒を一気に飲み干して、立ち上がった。立った拍子に、胃の奥から吐き気もいっしょにゆらりと立ち上がったような気がした。喉元(のどもと)にせり上がってくる酸(す)っぱい気配を、あわてて飲みくだす。
病院へ戻り、入院の手続きをすませる。
部屋は二階だ。階段がやけに長く、永久に続くように思われた。
案内されたのは五人部屋で、すでに先住人が四人、寝たり座ったりしている。八十歳に近そうな老人が二人。四十がらみの鉛色(なまりいろ)の顔をした男、それにもう一人はまだ十六、七の少年だ。
それぞれに目顔であいさつをする。
おれのベッドは窓際にあって、バリッとした白く清潔そうなシーツがかけられていた。
それを見たとたん、体力気力の糸が切れた。
棒っきれのように横たわる。
シーツは日なたの匂いがした。




















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