和書>小説・ノンフィクション>ミステリ小説>日本ミステリ小説
著者プロフィール
牧 逸馬(まき いつま)
本名、長谷川海太郎。1900年、新潟県佐渡に生まる。函館中学を卒業直前、ストライキ事件で退校。18歳で単身渡米、オベリン、ノーザン大学に在学、ボクシングに熱中したり、コック、ポーター、学僕等で働きつつ勉学、7年間の渡米生活は貴重な人生体験として刻みこまれた。帰国後、森下雨村の勧めにより谷譲次名で「めりけんじゃっぷ」ものを「新青年」に発表。以降、牧逸馬、林不忘と合わせ、三つの筆名を駆使して執筆、翻訳・創作・翻案に渡っての華々しい文壇活躍で一躍寵児となる。1935年、心臓麻痺で急逝。「7時03分」が絶筆となる。
著書:「丹下左膳」「水晶の座」 「白仙境」「この太陽」「心の波止場」「新しき天」「暁の狩人」「踊る地平線」「もだん・でかめろん」「世界怪奇実話集」等多数。
訳書:「猶太人ジュス」「バッド・ガール」他
本名、長谷川海太郎。1900年、新潟県佐渡に生まる。函館中学を卒業直前、ストライキ事件で退校。18歳で単身渡米、オベリン、ノーザン大学に在学、ボクシングに熱中したり、コック、ポーター、学僕等で働きつつ勉学、7年間の渡米生活は貴重な人生体験として刻みこまれた。帰国後、森下雨村の勧めにより谷譲次名で「めりけんじゃっぷ」ものを「新青年」に発表。以降、牧逸馬、林不忘と合わせ、三つの筆名を駆使して執筆、翻訳・創作・翻案に渡っての華々しい文壇活躍で一躍寵児となる。1935年、心臓麻痺で急逝。「7時03分」が絶筆となる。
著書:「丹下左膳」「水晶の座」 「白仙境」「この太陽」「心の波止場」「新しき天」「暁の狩人」「踊る地平線」「もだん・でかめろん」「世界怪奇実話集」等多数。
訳書:「猶太人ジュス」「バッド・ガール」他
解説
屍体の下半身は、酸鼻とも残虐ともいいようのない、まるで猛獣が獲物の小動物を食い散らした跡のような、眼も当てられない暴状を呈していた。……検屍の医師はじめ警官一同は慄然としたのである。陰部から下腹部へかけて柘榴のように切り開かれている。のみならず、鋭利な刃物で掬いとるように陰部を切りとって、陰毛を載せた一片の肉塊が、かたわらの壁の根に落ちていた。そればかりではない。切り開いた陰部から手を挿入して臓腑を引き出したものとみえて、まるで玩具箱をひっくりかえしたように、そこら一面、赤色と紫とその濃淡の諸器官がごっちゃに転がっていた、がただ一つ、子宮が紛失していた。
当時、自他ともに「斬り裂くジャック」と呼んで変幻きわまりなく、全ロンドンを恐怖の底に突き落としていた謎の殺人鬼があった。これが彼の、またもう一つの挑戦的犯行であることは、だれの眼にも一瞥してわかった。──「女肉を料理する男」ほか、世界怪奇実話8編を収録。
当時、自他ともに「斬り裂くジャック」と呼んで変幻きわまりなく、全ロンドンを恐怖の底に突き落としていた謎の殺人鬼があった。これが彼の、またもう一つの挑戦的犯行であることは、だれの眼にも一瞥してわかった。──「女肉を料理する男」ほか、世界怪奇実話8編を収録。
目次
女肉を料理する男
チャアリイは何処にいる
都会の類人猿
ウンベルト夫人の財産
浴槽の花嫁
戦雲を駆る女怪
肉屋に化けた人鬼
海妖
チャアリイは何処にいる
都会の類人猿
ウンベルト夫人の財産
浴槽の花嫁
戦雲を駆る女怪
肉屋に化けた人鬼
海妖
抄録
クララ・ニュウマンの絞殺死体が、姪によって同家屋根裏の便所で発見されたのは、貸間ありの札を出してから六日目の、二月二十日の夕方だった。同女は、手をもって頸部を扼殺され、便器の水中に顔を突っこんで死んでいて、しかも明白に暴行を受けていた。この、六十三歳の老婆を暴行致死せしめた事実からみて、検視に立会った係官一同は、犯行は変態性欲者に相違ないという当然の意見に一致したのだった。
時を移さずその筋の活動は開始されたが、物的証拠と目すべき何らの遺留品なく、この捜査はじつに困難をきわめた。同家は、被害者と姪と女中の、男気のない三人暮らしで、犯行の推定時間には、女中は買物に出て留守だったし、姪は、伯母のクララが貸間の下検分に来た男を案内して、愛想よく階上へあがるところを、廊下の端の台所の戸口からちらっと瞥見《べっけん》しただけで、遠くもあり、ほんの瞬間の観察にすぎなかったので、その人相着衣等に関する記憶は、ほとんど皆無《かいむ》といってもいいほど、漠然として薄弱なものだった。他に、信拠するに足る手がかりは一つもなかった。
すると、それからちょうど十日たった三月二日に、サンフランシスコに近いサン・ノゼ町で、ふたたび同じような事件が勃発した。被害者は、ロウラ・ビイル夫人――Mrs. Laura E. Beale――という、やはり六十三歳の老婆で、それも「貸間あり」の札を出して、犯人はそれを見てはいって来たのだ。クララ殺しで、カリフォルニア州じゅうが大騒ぎをしている最中に、まったく符節を合するような同一事件が再発したのだから、カルフォルニア州民の恐怖と激昂《げきごう》は頂点に達して、なかには、狼狽てて貸間札を引っこめる家さえ出て来た。この時も、死因は扼殺、顕著な暴行の跡があり、ビイル方のまむかいの家の主婦が、犯人らしい男が貸間札を指さして何かいいながらビイル夫人に招じ入れられるところを見たというだけで、それも、なんら役にたつ程度の証言ではなかった。ふたたび、警察の前には真っ黒な壁があるだけだった。ただ、この二つの事件が、同じ変態者の仕業であることだけは、疑いを入れなかった。謎の犯人は、すでに全米の新聞によって「闇黒《やみ》の絞殺者《ダアク・ストラングラア》」という名を付せられ、いたるところにセンセイショナルにあつかわれていた。
アメリカの新聞王ハアストの言葉に、新聞雑誌その他の刊行物に市場価値を持たせようとすれば、それは「犯罪と肌着《クライム・エンド・アンダウエア》」を大々的に取りあつかうに限るというのがある。この、犯罪はわかっているが、「肌着」はなにを寓意するのかというと、これは、いわゆるエロティシズムの要素と、「好ましくない私事」つまり醜聞《スキャンダル》の意味だ。ハアストはこの「犯罪と肌着《クライム・エンド・アンダウエア》」を社会記事編輯《へんしゅう》の標語にしているので、いかにもハアストらしい、赤新聞的な態度だが、しかし、現代ジャアナリズムの要諦をもっと端的につかみ出している点で考えさせられるものがあると思う。とにかくこういうハアスト系新聞がぼうだいな読者群を擁しているアメリカのことだ。この「闇黒《やみ》の扼殺者」の記事はいまいった社是《しゃぜ》にももってこいなので、そら来たとばかりいやが上に驚異と好奇心を唆《そそのか》るように、ハアスト系を先頭に盛んに書きたてたものである。
三月あまりは何事もなかった。が、六月十日である。またもやサンフランシスコで同じ犯罪が繰り返された。Mrs. Lillian St. Maryいう、不思議なことには、三たび六十三歳になる老婆が、自宅の窓へ例の「貸間あり」を出しているところへ、「彼」――この「彼」が何者であるかはあとで捕まってわかる――が訪ねて来て、その部屋を見たいと申込んだ。後刻、小綺麗なリリアン・聖《セント》メリイ夫人の絞殺体は、猛虐な暴行の痕跡とともに階上の一室の寝台《ベッド》の下から発見されたのである。
この時は、被害者のほかに犯人を見た者がないので、いっそう厄介な状況だった。全市の刑事と社会部記者が、競争的に捜査に従事したが、それは、まるで空気を追いまわすような、眼当てのない仕事だったといわなければならない。犯人は変態性欲者――恐らくは常人に気の付かない程の度の精神異常者――であろうというに止まり、捜査に参加した人々は、相互の影を踏んで鉢合わせを演ずるばかりで、まったく暗中摸索の状態だった。ここに一言しなければならないことは、この事件に関して米国各市の警察が受けた苛酷な非難についてである。あの二月二十日のクララ・二ユウマン殺しを皮切りに、「彼」は、後説するようにアメリカじゅうの都会を荒し廻ってカナダヘ飛んだが、アメリカでは、ただ一市の警察がすんでのことで「彼」の肩に手をおこうとしただけで、他のすべて失敗に終っている。が、警察が最善を尽したことはいうまでもなく、これには、無理もない点も多々あるので、「闇黒《やみ》の扼殺者」は、一つの例外もなく、人口稠密《ちゅうみつ》な大都会のまん中でのみ犯行を重ねた。都会には特に「見慣れない人」というものはあり得ない。しいて言えば、一人の市民にとって他の市民の全部は日々見慣れない人である。そのために、何ら特別の注意を惹かずに行動することは容易だし、それだけまた、捜査に当って足取りを拾うのが困難なわけだ。しかもこの特定の場合、「彼」が、その兇行の家から宝石貴金属等を奪い去るようになったのは比較的のちのことで、最初のうちは、陵辱と、たんなる血の狂欲のための惨劇にすぎなかった一事も、捜査を苦しめた原因のひとつとして考慮に入れなければならない。あらゆる殺人の動機のうちで、こういうのが一番物的証拠に乏しく、足がつきにくいとされている。
時を移さずその筋の活動は開始されたが、物的証拠と目すべき何らの遺留品なく、この捜査はじつに困難をきわめた。同家は、被害者と姪と女中の、男気のない三人暮らしで、犯行の推定時間には、女中は買物に出て留守だったし、姪は、伯母のクララが貸間の下検分に来た男を案内して、愛想よく階上へあがるところを、廊下の端の台所の戸口からちらっと瞥見《べっけん》しただけで、遠くもあり、ほんの瞬間の観察にすぎなかったので、その人相着衣等に関する記憶は、ほとんど皆無《かいむ》といってもいいほど、漠然として薄弱なものだった。他に、信拠するに足る手がかりは一つもなかった。
すると、それからちょうど十日たった三月二日に、サンフランシスコに近いサン・ノゼ町で、ふたたび同じような事件が勃発した。被害者は、ロウラ・ビイル夫人――Mrs. Laura E. Beale――という、やはり六十三歳の老婆で、それも「貸間あり」の札を出して、犯人はそれを見てはいって来たのだ。クララ殺しで、カリフォルニア州じゅうが大騒ぎをしている最中に、まったく符節を合するような同一事件が再発したのだから、カルフォルニア州民の恐怖と激昂《げきごう》は頂点に達して、なかには、狼狽てて貸間札を引っこめる家さえ出て来た。この時も、死因は扼殺、顕著な暴行の跡があり、ビイル方のまむかいの家の主婦が、犯人らしい男が貸間札を指さして何かいいながらビイル夫人に招じ入れられるところを見たというだけで、それも、なんら役にたつ程度の証言ではなかった。ふたたび、警察の前には真っ黒な壁があるだけだった。ただ、この二つの事件が、同じ変態者の仕業であることだけは、疑いを入れなかった。謎の犯人は、すでに全米の新聞によって「闇黒《やみ》の絞殺者《ダアク・ストラングラア》」という名を付せられ、いたるところにセンセイショナルにあつかわれていた。
アメリカの新聞王ハアストの言葉に、新聞雑誌その他の刊行物に市場価値を持たせようとすれば、それは「犯罪と肌着《クライム・エンド・アンダウエア》」を大々的に取りあつかうに限るというのがある。この、犯罪はわかっているが、「肌着」はなにを寓意するのかというと、これは、いわゆるエロティシズムの要素と、「好ましくない私事」つまり醜聞《スキャンダル》の意味だ。ハアストはこの「犯罪と肌着《クライム・エンド・アンダウエア》」を社会記事編輯《へんしゅう》の標語にしているので、いかにもハアストらしい、赤新聞的な態度だが、しかし、現代ジャアナリズムの要諦をもっと端的につかみ出している点で考えさせられるものがあると思う。とにかくこういうハアスト系新聞がぼうだいな読者群を擁しているアメリカのことだ。この「闇黒《やみ》の扼殺者」の記事はいまいった社是《しゃぜ》にももってこいなので、そら来たとばかりいやが上に驚異と好奇心を唆《そそのか》るように、ハアスト系を先頭に盛んに書きたてたものである。
三月あまりは何事もなかった。が、六月十日である。またもやサンフランシスコで同じ犯罪が繰り返された。Mrs. Lillian St. Maryいう、不思議なことには、三たび六十三歳になる老婆が、自宅の窓へ例の「貸間あり」を出しているところへ、「彼」――この「彼」が何者であるかはあとで捕まってわかる――が訪ねて来て、その部屋を見たいと申込んだ。後刻、小綺麗なリリアン・聖《セント》メリイ夫人の絞殺体は、猛虐な暴行の痕跡とともに階上の一室の寝台《ベッド》の下から発見されたのである。
この時は、被害者のほかに犯人を見た者がないので、いっそう厄介な状況だった。全市の刑事と社会部記者が、競争的に捜査に従事したが、それは、まるで空気を追いまわすような、眼当てのない仕事だったといわなければならない。犯人は変態性欲者――恐らくは常人に気の付かない程の度の精神異常者――であろうというに止まり、捜査に参加した人々は、相互の影を踏んで鉢合わせを演ずるばかりで、まったく暗中摸索の状態だった。ここに一言しなければならないことは、この事件に関して米国各市の警察が受けた苛酷な非難についてである。あの二月二十日のクララ・二ユウマン殺しを皮切りに、「彼」は、後説するようにアメリカじゅうの都会を荒し廻ってカナダヘ飛んだが、アメリカでは、ただ一市の警察がすんでのことで「彼」の肩に手をおこうとしただけで、他のすべて失敗に終っている。が、警察が最善を尽したことはいうまでもなく、これには、無理もない点も多々あるので、「闇黒《やみ》の扼殺者」は、一つの例外もなく、人口稠密《ちゅうみつ》な大都会のまん中でのみ犯行を重ねた。都会には特に「見慣れない人」というものはあり得ない。しいて言えば、一人の市民にとって他の市民の全部は日々見慣れない人である。そのために、何ら特別の注意を惹かずに行動することは容易だし、それだけまた、捜査に当って足取りを拾うのが困難なわけだ。しかもこの特定の場合、「彼」が、その兇行の家から宝石貴金属等を奪い去るようになったのは比較的のちのことで、最初のうちは、陵辱と、たんなる血の狂欲のための惨劇にすぎなかった一事も、捜査を苦しめた原因のひとつとして考慮に入れなければならない。あらゆる殺人の動機のうちで、こういうのが一番物的証拠に乏しく、足がつきにくいとされている。
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