和書>小説・ノンフィクション>文芸>日本文学>現代小説
著者プロフィール
戸川 幸夫(とがわ ゆきお)
明治45年、佐賀県生まれ。昭和11年、旧制山形高校理科甲類中退。
昭和29年「高安犬物語」で直木賞受賞。53年、芸術選奨文部大臣賞。56年、紫綬褒章。60年、児童文学功労者に選ばれる。
主な著書は「すばらしき動物の世界」「イリオモテヤマネコ」「マタギ」「人喰鉄道」「ヒトはなぜ助平になったか」「戸川幸夫動物文学全集」(全10巻)他。
明治45年、佐賀県生まれ。昭和11年、旧制山形高校理科甲類中退。
昭和29年「高安犬物語」で直木賞受賞。53年、芸術選奨文部大臣賞。56年、紫綬褒章。60年、児童文学功労者に選ばれる。
主な著書は「すばらしき動物の世界」「イリオモテヤマネコ」「マタギ」「人喰鉄道」「ヒトはなぜ助平になったか」「戸川幸夫動物文学全集」(全10巻)他。
解説
600頭を上回る鯨の大群。その王の子として生まれた「三ツ星」は、愛情に包まれすくすくと育つが、年老いた父は世代交代の戦いに敗れて群れを去り、最愛の母までも、捕鯨船の見習い砲手政吉の攻撃によって奪われてしまう。
やがて三ツ星は心身ともに偉大な成長を遂げ、日本屈指の名砲手となった政吉の前に現れる。そして三ツ星と政吉の対決は、何度となく繰り返されるのだった――。
巨鯨と海に生きる男の、息をのむ決闘とそこに芽生えた奇妙な友情を、動物文学第一人者が描く!
やがて三ツ星は心身ともに偉大な成長を遂げ、日本屈指の名砲手となった政吉の前に現れる。そして三ツ星と政吉の対決は、何度となく繰り返されるのだった――。
巨鯨と海に生きる男の、息をのむ決闘とそこに芽生えた奇妙な友情を、動物文学第一人者が描く!
目次
怒れる海
三ツ星の誕生
追跡者
消えた母親
愛の挫折
死闘の渦
恐怖の雷鳴
悶えと疼き
自分との闘い
ふしぎな娘
海へ還る
野獣との愛情
三ツ星の誕生
追跡者
消えた母親
愛の挫折
死闘の渦
恐怖の雷鳴
悶えと疼き
自分との闘い
ふしぎな娘
海へ還る
野獣との愛情
抄録
政吉は仔連れの母鯨たちが浮上している一群に向って船を近づけた。
母子鯨の群のはるか彼方に若い牝鯨たちの群が浮上した。支配者は足弱組が気になって若いハレムの連中のところには行かず、母子鯨群の殿(しんがり)を守って浮上していた。
政吉が、まず最初に狙いをつけたのはそいつだった。だから耕造も、鉄五郎もそれを射つのだと思った。
捕鯨船が近づいたとき、支配者は再び、ぴいっ――と危険信号を発してざぶりと水しぶきをあげて逆とんぼをうった。
彼や、母鯨たちにはここまでの潜水距離は大したことではなく、まだまだ十分の余力を残していたので続けて潜ることも少しも苦痛ではなかったが、仔鯨たちにとっては大へんなことだった。
危険信号に従って潜りはしたものの、疲労は回復していなかった。すぐに苦しくなって三ツ星坊やは浮上した。
するとびっくりするほどの速さで、またびっくりするほどの大きな唸り声をたてて怖ろしい敵はかけつけてきた。
心配して浮上した母鯨が、坊やの頭を押えつけるようにして、海中に押しこんだ。
三ツ星坊やはもう夢中だった。
しかし、前ほどに我慢することはとてもできなかった。もうどうなってもよかった。
坊やは眼を白黒させて浮き上った。同じように喘いで、悲鳴をあげているものが周囲にあったが、坊やの眼には入らなかった。
ただ彼の耳には、ゴオンゴオンと大きな音を立てながら近づいてくる魔物の声だけが聞えた。
そして水をはねかえして潜ってゆく仲間の音がたて続けにしたが、坊やにはまだ潜る準備ができていなかった。
彼は、はあはあと喘いでいた。そのとき背後からのしかかって、坊やを水の中に押しこんだものがあった。
母親だった。
“お母あさんッ苦しい!”
坊やは泣きわめいて、押しつけてくる母の大きな体を突き上げようとした。
その瞬間、もの凄い音がした。それは三ツ星坊やがこれまで聞いたこともない、とてつもない大きな轟きで、その音は水を伝って坊やの五体をしびれさせるほどだった。坊やは恐怖で凍りついた。
そのとき、母親の体がきしきしと音をたててのけ反り、苦痛の叫びをあげていた。温い血潮が、彼に浴せかかった。
偉い母がどうして、あんな悲鳴をあげるのか、坊やには解らなかった。だが、とにかく表現しようのない恐怖が坊やの頭の先から尾の先までを一直線に貫いて、狼狽だけが彼を擒(とりこ)にした。
坊やは、誰だか知らないが、前を走っているものの水流――掻きまわしている渦音に追いつこうとして死にもの狂いになった。
なんどか浮上し、なんども潜った。どうして息をついだかわからなかった。
そして、あのゴオンゴオンという恐ろしげな魔王の叫びが、ようやく遠のいたとき、はじめて自分をとり戻した。
坊やは太陽の照らしている海面にぐったりと浮上した。
そこいらには同じような仔鯨たちが、いくらもいて、母鯨の介抱をうけていた。
それなのに三ツ星坊やには、いたわってくれる筈の母親は現われなかった。
母子鯨の群のはるか彼方に若い牝鯨たちの群が浮上した。支配者は足弱組が気になって若いハレムの連中のところには行かず、母子鯨群の殿(しんがり)を守って浮上していた。
政吉が、まず最初に狙いをつけたのはそいつだった。だから耕造も、鉄五郎もそれを射つのだと思った。
捕鯨船が近づいたとき、支配者は再び、ぴいっ――と危険信号を発してざぶりと水しぶきをあげて逆とんぼをうった。
彼や、母鯨たちにはここまでの潜水距離は大したことではなく、まだまだ十分の余力を残していたので続けて潜ることも少しも苦痛ではなかったが、仔鯨たちにとっては大へんなことだった。
危険信号に従って潜りはしたものの、疲労は回復していなかった。すぐに苦しくなって三ツ星坊やは浮上した。
するとびっくりするほどの速さで、またびっくりするほどの大きな唸り声をたてて怖ろしい敵はかけつけてきた。
心配して浮上した母鯨が、坊やの頭を押えつけるようにして、海中に押しこんだ。
三ツ星坊やはもう夢中だった。
しかし、前ほどに我慢することはとてもできなかった。もうどうなってもよかった。
坊やは眼を白黒させて浮き上った。同じように喘いで、悲鳴をあげているものが周囲にあったが、坊やの眼には入らなかった。
ただ彼の耳には、ゴオンゴオンと大きな音を立てながら近づいてくる魔物の声だけが聞えた。
そして水をはねかえして潜ってゆく仲間の音がたて続けにしたが、坊やにはまだ潜る準備ができていなかった。
彼は、はあはあと喘いでいた。そのとき背後からのしかかって、坊やを水の中に押しこんだものがあった。
母親だった。
“お母あさんッ苦しい!”
坊やは泣きわめいて、押しつけてくる母の大きな体を突き上げようとした。
その瞬間、もの凄い音がした。それは三ツ星坊やがこれまで聞いたこともない、とてつもない大きな轟きで、その音は水を伝って坊やの五体をしびれさせるほどだった。坊やは恐怖で凍りついた。
そのとき、母親の体がきしきしと音をたててのけ反り、苦痛の叫びをあげていた。温い血潮が、彼に浴せかかった。
偉い母がどうして、あんな悲鳴をあげるのか、坊やには解らなかった。だが、とにかく表現しようのない恐怖が坊やの頭の先から尾の先までを一直線に貫いて、狼狽だけが彼を擒(とりこ)にした。
坊やは、誰だか知らないが、前を走っているものの水流――掻きまわしている渦音に追いつこうとして死にもの狂いになった。
なんどか浮上し、なんども潜った。どうして息をついだかわからなかった。
そして、あのゴオンゴオンという恐ろしげな魔王の叫びが、ようやく遠のいたとき、はじめて自分をとり戻した。
坊やは太陽の照らしている海面にぐったりと浮上した。
そこいらには同じような仔鯨たちが、いくらもいて、母鯨の介抱をうけていた。
それなのに三ツ星坊やには、いたわってくれる筈の母親は現われなかった。
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