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人喰鉄道

人喰鉄道

著: 戸川幸夫
発行: オンライン出版
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著者プロフィール

 戸川 幸夫(とがわ ゆきお)
 明治45年、佐賀県生まれ。昭和11年、旧制山形高校理科甲類中退。
 昭和29年「高安犬物語」で直木賞受賞。53年、芸術選奨文部大臣賞。56年、紫綬褒章。60年、児童文学功労者に選ばれる。
 主な著書は「すばらしき動物の世界」「イリオモテヤマネコ」「マタギ」「人喰鉄道」「ヒトはなぜ助平になったか」「戸川幸夫動物文学全集」(全10巻)他。

解説

 1896年、今日アフリカの動脈となっているウガンダ鉄道の建設が開始された。この鉄道建設には、自然界がもつ非情さが容赦なく襲いかかる。人喰ライオンの出没、マサイ族の襲撃、コレラの蔓延、労働者の逃亡……。しかしそこには、数多くの困難に果敢に立ち向かうひとりの青年技師がいた――。
 鉄道建設にかける青年技師パターソンの情熱と、アフリカの雄大な自然を、事実をもとに見事に描いた傑作長編小説!

目次

鉄の蛇
Shetani(悪霊)
ハルスレンの最後の狩
炎の眼
つぎの餌場
二枚の爪
もう一つの敵
一人の密猟者
炎の踊り
ムガイの神の怒り
ねむたい眼
黄色い道
天の星と地の星の間で
奸策
三本指の襲撃
過信への戒め
パターソンの新たな出発
鰐(わに)の河
二人の婦人伝道師
羽の嵐
泥の怒り
犀(さい)の子
ヘラシンギの死
サボタージュ
脅迫
黒い沸騰
鎮圧
一匹の甲虫
野性の力
ブータの妻と弟
荒野の殺し屋
槍と爪
軍隊出動
囮(おとり)
愛のはげまし
混乱の中で
真昼の流星
巨大なる壁
最初のライオン
怖るべき復讐
死の対決
最初の勝ちなのり
落日のサバンナで
大いなる犠牲
最後の襲撃
輝く太陽の下を

抄録

 病棟へあと五十メートルというところに一本の大きなバオバブの樹があった。蒼白い夜明けの空気の中にありながら、そこの根もとだけは夜の闇がまだ未練たらしくこびりついていた。
 そこまで来て、パターソンははっとした。バオバブの根もとの闇の中になにかが匿(かく)れている気配を感じたからだ。そいつは闇という隠れ蓑(みの)の有利さの中に在ってこちらをじいっと監視している。
 影であった。黒い影があった。その影は少しも動かないが、樹の瘤(こぶ)でもなければ、蟻の塔でも、草のかたまりでもない。影のうしろには蛇のようにのたうつ細くて長いもう一つの影があった。その不気味なうねりは緊張を示している。
 パターソンのブルーの瞳孔(ひとみ)がそれを認めた瞬間ちぢんで凝視した。彼の足はそこで釘づけになった。
 朝の復活は急速だった。影の特徴が一瞬一瞬はっきりするにつれて、それが根もとにうずくまった大きな牝のライオンであることがわかった。
 パターソンの血が凍った。彼は、もう朝だと安心していた。それにそう遠くない距離だとの油断から鉄砲を舟に置いてきたことを悔んだ。しかし、この距離では、たとえ鉄砲をもっていたにしろどうすることもできないだろう。銃の台尻が彼の肩にすわる前に、敵は跳躍してくるにちがいない。猛々しい肉食獣の咆哮(ほうこう)の下で、いたずらに無力を暴露するだろう。むしろ鉄砲のなかったことが、パターソンに勇気をふるい起こさせた。
 一たび死を覚悟した身には、相手がマサイであろうと、ライオンであろうと同じだった。槍と牙のちがいだけじゃあないか。そう思うとパターソンから怖気(おじけ)が去った。インドの密林で、いく度か縞のある大きな猫と死の対決をしてきた彼は、怖気こそ最大の危機をはらんでいることを知っている。ほんの少しでも恐怖の表情を露呈すると敵はすぐにそれにつけこんでくることや、優柔不断の態度をとると、それが死に値することを知っている。
 どうせ死ぬ体だ! とパターソンはもう一度思う。
 彼は人喰ライオンのまるい顔を見つめた。右の耳が三分の一ほどちぎれていた。まぎれもない“欠け耳”だ。親友ハルスレンを殺した奴だった。パターソンはかっと全身が燃え上がるのを覚えた。
 よしッ、俺は無手でこいつとぶっつかってやろう。俺の武器は、精神力と眼だけだ。こいつで闘おう。こいつに、勝てたら俺はレナナにも勝てるだろう。
 パターソンはそこでゆっくりとした足どりで……しかし、決然として、確実に同じ歩幅と、同じ速度で、欠け耳の方に歩きだした。
 ただ彼の視線は火を噴くほどの強烈さで猛獣の琥珀(こはく)色の眼に注がれていた。
 一歩、二歩、三歩、四歩……距離はちぢまってゆく。三十メートル、二十メートル、十メートル……。
 欠け耳も、パターソンの眼から視線を外(そ)らさなかった。二本の視線は、両者の中間でまっ向から切りむすび、眼に見えない火花を散らした。

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