和書>小説・ノンフィクション>文芸>日本文学>現代小説
著者プロフィール
戸川 幸夫(とがわ ゆきお)
明治45年、佐賀県生まれ。昭和11年、旧制山形高校理科甲類中退。
昭和29年「高安犬物語」で直木賞受賞。53年、芸術選奨文部大臣賞。56年、紫綬褒章。60年、児童文学功労者に選ばれる。
主な著書は「すばらしき動物の世界」「イリオモテヤマネコ」「マタギ」「人喰鉄道」「ヒトはなぜ助平になったか」「戸川幸夫動物文学全集」(全10巻)他。
明治45年、佐賀県生まれ。昭和11年、旧制山形高校理科甲類中退。
昭和29年「高安犬物語」で直木賞受賞。53年、芸術選奨文部大臣賞。56年、紫綬褒章。60年、児童文学功労者に選ばれる。
主な著書は「すばらしき動物の世界」「イリオモテヤマネコ」「マタギ」「人喰鉄道」「ヒトはなぜ助平になったか」「戸川幸夫動物文学全集」(全10巻)他。
解説
満州国のソ連との国境地帯に、県参事官として赴任した田中吾一。彼は、着任後まもなく、この地方に勢力を振るう匪賊の帰順工作を提案し、頭目との単独交渉に成功する。そこへ、山中のトンネル工事現場で人夫が虎に殺された、との知らせが入った。それは、わが子を人間に襲われた母虎の復讐だった……。
吾一は虎の追跡に出掛けるため、山塊の狩人・于竜飛を案内人として迎えた。道などない雪山へと分け入って行く2人に、大自然の恐怖が襲いかかる――。
吾一は虎の追跡に出掛けるため、山塊の狩人・于竜飛を案内人として迎えた。道などない雪山へと分け入って行く2人に、大自然の恐怖が襲いかかる――。
目次
一 三尖磊子(サンチェンレイズ)
二 緑林工作
三 劉百峯(リュウパイフォン)
四 山神爺の怒り
五 影への怯え
六 烏拉草(ウラツァオ)の家
七 追跡
八 吹雪の夜
九 野獣の夜の裁き
十 国境の春
十一 隠れ蓑
十二 夜の狩小屋
二 緑林工作
三 劉百峯(リュウパイフォン)
四 山神爺の怒り
五 影への怯え
六 烏拉草(ウラツァオ)の家
七 追跡
八 吹雪の夜
九 野獣の夜の裁き
十 国境の春
十一 隠れ蓑
十二 夜の狩小屋
抄録
虎は、この先に居る。落ちつくんだ。吾一はなんども大きく深呼吸をした後で、もう一度ライフルを点検した。ちょっとしたミスも許されない。
銃の点検を終えると、こんどはピストルを調べ、山刀も見た。異常はない。
よし、行くぞ――自分に号令をかけた。こんどは姿勢を低くして、岩の陰からそろりと這い出す。
二番目の目標の蝦夷松は二十メートルほど下に立っている。
吾一は前方を見る。どこにも虎の姿はない。
うしろをふり返って見る。竜飛は居ない。
吾一は這うように、そしてゆっくりと降りた。虎の敏い眼は、おそらくちらっとした動きも見逃さないだろう、そう思うと、手足を一本動かすにも用心した。蝦夷松に達するまで、二十分ぐらいかかったかもしれない。
そこまで来たとき、百メートルほど下の木の根もとに猪の屍体が転がっているのが見えた。雪に血が滲み、猪は無念そうに牙をむき出していた。右後から腰にかけて喰いちぎられた痕跡があり、白い脂肪と桃色の肉が見える。さすがに大喰いの虎も、このくらいの大物になると一度には食べられないのだ。
虎は満腹して、きっと、どこか近くの、自分の獲物を見張れる場所に横たわっているに違いない。
しばらく様子を窺った。だが、山は依然として静かだった。吾一はそろりと樹の幹から這い出して、虎を捜した。
虎の姿はない。前方に無数にある岩場にも、その姿はなかった。虎は必ず近くに居る、という竜飛の言葉も嘘に思えた。吾一は、半腰になって降りてゆく。
と――、カッコー、カッコーと遠くで合図する竜飛の声が聞えた。
何だ? と、ふりかえりかけて、吾一は愕然とした。巨大な虎が、彼の右手後方の岩の上から、じっと見下しているのだ。
“しまったッ!”
力がすっと抜けた。瞬間、“俺は殺られる”と思った。虎は前方に居るものとばかり考えていた。ところが、虎の方では、先に彼の接近を知っていたのだ。
牝虎はまわり道して、右手の岩の陰に待機し、吾一が通り過ぎるのを待って、岩に上ったのだろう。
吾一のライフルの銃口は、前方に向けられたままだった。銃口だけでなく、体もそうだった。
これではここで虎を撃とうとすれば、まず向きを変え、うしろをふり返り、それから銃を構え直して、発射するしかない。だが、虎が、それまで待ってくれるはずはない。
“上方に居る虎を撃つことは死を意味する”と竜飛はなんども訓(おし)えた。その言葉が、パッと閃いた。しかし、それよりも吾一は魔神の金縛りにあったように体が動かなかった。どうしていいかもわからない。
頼みは、自分のうしろの、高い地点に居る竜飛が虎を撃ってくれることだった。
その竜飛のカッコーの声も、ずいぶんと遠くだったような気がする。遠くからでは射撃は無理だ。虎は急所を一発で決めて、撃ち斃さない限り、間違いなく襲ってくる。却って危険だ。
吾一は、呆然として虎を見つめていた。
銃の点検を終えると、こんどはピストルを調べ、山刀も見た。異常はない。
よし、行くぞ――自分に号令をかけた。こんどは姿勢を低くして、岩の陰からそろりと這い出す。
二番目の目標の蝦夷松は二十メートルほど下に立っている。
吾一は前方を見る。どこにも虎の姿はない。
うしろをふり返って見る。竜飛は居ない。
吾一は這うように、そしてゆっくりと降りた。虎の敏い眼は、おそらくちらっとした動きも見逃さないだろう、そう思うと、手足を一本動かすにも用心した。蝦夷松に達するまで、二十分ぐらいかかったかもしれない。
そこまで来たとき、百メートルほど下の木の根もとに猪の屍体が転がっているのが見えた。雪に血が滲み、猪は無念そうに牙をむき出していた。右後から腰にかけて喰いちぎられた痕跡があり、白い脂肪と桃色の肉が見える。さすがに大喰いの虎も、このくらいの大物になると一度には食べられないのだ。
虎は満腹して、きっと、どこか近くの、自分の獲物を見張れる場所に横たわっているに違いない。
しばらく様子を窺った。だが、山は依然として静かだった。吾一はそろりと樹の幹から這い出して、虎を捜した。
虎の姿はない。前方に無数にある岩場にも、その姿はなかった。虎は必ず近くに居る、という竜飛の言葉も嘘に思えた。吾一は、半腰になって降りてゆく。
と――、カッコー、カッコーと遠くで合図する竜飛の声が聞えた。
何だ? と、ふりかえりかけて、吾一は愕然とした。巨大な虎が、彼の右手後方の岩の上から、じっと見下しているのだ。
“しまったッ!”
力がすっと抜けた。瞬間、“俺は殺られる”と思った。虎は前方に居るものとばかり考えていた。ところが、虎の方では、先に彼の接近を知っていたのだ。
牝虎はまわり道して、右手の岩の陰に待機し、吾一が通り過ぎるのを待って、岩に上ったのだろう。
吾一のライフルの銃口は、前方に向けられたままだった。銃口だけでなく、体もそうだった。
これではここで虎を撃とうとすれば、まず向きを変え、うしろをふり返り、それから銃を構え直して、発射するしかない。だが、虎が、それまで待ってくれるはずはない。
“上方に居る虎を撃つことは死を意味する”と竜飛はなんども訓(おし)えた。その言葉が、パッと閃いた。しかし、それよりも吾一は魔神の金縛りにあったように体が動かなかった。どうしていいかもわからない。
頼みは、自分のうしろの、高い地点に居る竜飛が虎を撃ってくれることだった。
その竜飛のカッコーの声も、ずいぶんと遠くだったような気がする。遠くからでは射撃は無理だ。虎は急所を一発で決めて、撃ち斃さない限り、間違いなく襲ってくる。却って危険だ。
吾一は、呆然として虎を見つめていた。
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