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芭蕉=その人生と芸術

芭蕉=その人生と芸術

著: 井本農一
発行: 講談社
価格:578円(税込)
10ポイント還元
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対応端末:パソコン 
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著者プロフィール

 井本 農一(いもと のういち)
 国文学者。元実践女子大学学長。国文学に関する著書多数。

解説

 十七文字で人生の深淵をのぞく――。遍歴漂泊の生涯を送り、俳諧を魂の感動の表現にまで高めた松尾芭蕉。本書は、著者の長年の蓄積のうえに、新たに発見された資料を駆使して、出生から死にいたるまでの「謎」を追い、その芸術のこころを明かした力作である。

目次

まえがき


1 生い立ち
2 俳諧を学ぶ
3 新風うずまく江戸で
4 宗匠となる
5 転機に立つ
6 新しい出発
7 『おくのほそ道』の旅
8 不易流行の論
9 みのり
10 『おくのほそ道』なる
11 最後の年


芭蕉略年譜

抄録

 東京を夜行列車で立つと、朝方、国鉄関西線の「伊賀上野」の駅に着く。汽車が駅を出ると間もなく、左手の丘陵の上に上野城の天守閣が遠く見える。天守閣は再建されたものだが、城址は今でも残っている。城址の石垣は、慶長十六年(一六一一)ごろ、藤堂高虎が築造したものである。
 藤堂高虎は、これより先、伊予国(今の愛媛県)今治にいて二十二万石を領していたが、慶長十三年(一六〇八)八月、伊賀・伊勢に移り、二十二万石を領した。その後、慶長十九年、二十(元和元)年の大坂城攻略には徳川方に属して奮戦し、世が徳川方に移るや、伊賀一国十万石余の外、伊勢の安濃・一志を中心に十七万石、山城大和に五万石、別に下総(しもうさ)に三千石、合わせて三十二万石余を領する国持ち大名の雄藩となった。津と上野にはそれぞれ城代家老が置かれ、伊勢と伊賀の領地を治めた。上野の城代家老は、始めは藤堂出雲守高清であったが、寛永十七年(一六四〇)からは藤堂采女(うねめ)家が代々その職に着くこととなった(『上野市史』)。
 その上野が芭蕉の郷里である。
 上野の町のことをもう少し書いて置こう。
 上野は伊賀の国全体からいうと、北寄りに位置している、伊賀盆地(今は上野盆地という)の中心の城下町であった。
 伊賀の国は全体として山地である。従って地味肥沃(ひよく)とはいえない。伊賀一国で十万石であるから、農耕に恵まれた土地ではない。山に囲まれた地方で、中央に対し、いわば僻地(へきち)であるから、交通の要衝というわけでもなく、また農業に代わる他の産業の著しいものもない。伊賀は、どちらかといえば、恵まれない土地である。
 気候の上からいっても、内陸性盆地特有の寒暖の差が大きい。『上野市史』によれば、過去における上野市の最高気温は三八・八度であり、最低気温は零下九・三度であるという。三重県下の他の測候所のどれよりも最高であり、最低である。海岸地帯に比して、きびしい気候であるといわねばならない。また、県下でも最も雨の少ない土地である。
 伊賀一国の人口は、万治三年(一六六〇)の調査では、七万五千八百五十人で、それから六十七年後の享保十二年(一七二七)には、八万九千四百七十五人、家数で一万九千百四十四軒である(『上野市史』)。芭蕉の頃はその中間をとって、約八万人余ぐらいであったか。もっともこの調査には武士の人口は含まれていない。
 伊賀盆地の中心である上野の人口は、享保十二年の調査では、家数二千百七十九軒、人口一万一千百九十五人である(『上野市史』)。芭蕉の頃はこれより少なかったから、一万人ぐらいのものであったろうか。もっとも、この数にも武士は含まれていない。

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