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著者プロフィール
野内 良三(のうち りょうぞう)
関西外国語大学教授。専門はフランス文学・レトリック。1944年、東京都生まれ。東京教育大学文学部仏文科卒。同大学院文学研究科博士課程中退。静岡女子大学助教授、高知大学教授を経て現職。
関西外国語大学教授。専門はフランス文学・レトリック。1944年、東京都生まれ。東京教育大学文学部仏文科卒。同大学院文学研究科博士課程中退。静岡女子大学助教授、高知大学教授を経て現職。
解説
最近の日本の若者・大学生の文章力の低さに筆者は驚き、学生に限らず、すべての人が、ちょっとした工夫で、わかりやすい日本語が書けるよう、だれでも習得できる12の基礎技術を提案する。
うまい日本語文章術への近道は、日本語の構造的な特質を知ることから。本書で、平明でわかりやすい日本語、論理的で説得力のある文章を作る工夫をしよう!
うまい日本語文章術への近道は、日本語の構造的な特質を知ることから。本書で、平明でわかりやすい日本語、論理的で説得力のある文章を作る工夫をしよう!
目次
はじめに
I 初級編―文を書く(作文の基礎はなにか・技術)
書くということ
ヨーロッパ語の論理、日本語の論理
わかりやすい文を書くために
II 中級編―文と文をつなぐ(どういう順序で書くべきか・配置)
段落を大切にしよう(心得六条)
主張には必ず論拠を示そう(心得七条)
III 上級編―文章をみがく(どのように書くべきか・修辞)
視点を変えれば
型に従う
附録
I 初級編―文を書く(作文の基礎はなにか・技術)
書くということ
ヨーロッパ語の論理、日本語の論理
わかりやすい文を書くために
II 中級編―文と文をつなぐ(どういう順序で書くべきか・配置)
段落を大切にしよう(心得六条)
主張には必ず論拠を示そう(心得七条)
III 上級編―文章をみがく(どのように書くべきか・修辞)
視点を変えれば
型に従う
附録
抄録
◆書くとは「引用」である
本当に不思議である。頭の中ではきっちりまとまっていたように思えた考えをいざ書こうとする段になると、どうしても文字にならない。ほんの少し前まではあんなに明瞭だったのにと歯がゆい思いをする。どうして考えていることが書けないのか。あるいはまた、うまく話せたことをそのまま文章にしようとしたら、とたんに言葉に詰まる。これは一体どういうことなのか。みなさん、そんな経験をしたことはありませんか。
どうやら「書く」ということは一筋縄ではいかない行為のようだ。
「書くこと」には「話すこと」「思うこと」とは別のメカニズムが働いているらしい。それは果たしてなんだろうか。そのメカニズムさえ突きとめられれば、すらすらと書けること請け合いなのだが……。
そもそも書くとはどういうことなのか。この問題を本格的に論じようとすればそれこそもう一冊の本を必要とする大問題だが、ここではあくまでも「作文」に即して考えてみたい。
「作文」とは文字どおりにとれば「文を作ること」だ。この場合「作る」には「創造」と「でっちあげる」といういい意味と悪い意味がある。いずれにしても「無からの創造」である。ここには、書くという行為は人間が主体的におこなう行為であるという大前提がある。そして、言葉は人間の言いなりになる手軽な道具、思想を伝える手段であるとされる。しかし、この前提は正しいだろうか。そして言葉は、思想を伝える道具や手段にすぎないのだろうか。ふだん人間は素朴に自分が語っている、自分が書いていると思い込んでいるけれども、本当にそうなのだろうか。
この疑問をラディカル(根本的/過激)に問題にしたのが、「構造主義」に端を発する現代思想である。小難しい議論の核心のところを要約すれば、「誰が語るのか」という疑問が発せられ、「言語が語るのだ」という答えが返ってきたということになるだろう。つまり「語る主体」としての人間という伝統的な主知的人間観は音を立てて崩れ去ったということだ。言語は一つの体系(構造)であり、語る人間より以前にすでに「構成された構造」として存在する。人間が語るというよりは人間は言語という構造を通して、あるいは言語という構造(たとえば、日本語やフランス語という体系)を通してしか語りえない。だから人間が語るというよりは言語が人間をして語らせる、言語が語るというべきなのだ。詩人とか哲学者といった特権的人間だけが言語の構造に揺さぶりをかけ、言語の流動化に挺身する。人間は言語によって語らされている――これが現代言語思想の結論(?)である。
この結論は書く人間が日頃もやもや感じている疑問に確かに部分的に答えている。興に乗って書いているとき、人は自分が何者かによって突き動かされているのを感じる。文が文を呼び、ひとりでに文章ができあがってゆく。自分より大きなものによって拉致されているのを覚える。そのとき人は言語に素直に耳を傾けているのである。言い換えれば自分が書いているんだというような思い上がった気持ちを棄てるとき、言語は普段とは異なった顔――本来の顔だろうか――をみせる。
上で述べたことは抽象的でわかりにくいかもしれない。しかしそんなに難しいことを言っているわけではない。文章を書くとは一般の予想とは反対に「無からの創造」ではない。すでにあるものをいかにうまく利用する(選択する)かの問題なのだ。誤解を恐れずあえて言えば書くとは「引用」である。このことを日常的場面で確認してみよう。
たとえば幼児の言語習得の過程を思い描いてみよう。幼児は母親の言葉を真似る。それは母親の言葉の引用である。幼児は母親の言葉を盗んでいるのだと言ってもよい。しかしこの引用は一方的な行為ではないことに注意しなければならない。引用の仕方が悪いと母親のチェックを受ける。引用とチェック、この二つのプロセスを繰り返しながら幼児は言語能力を高め、言語を習得してゆく。
言語を習得しても私たちは相変わらず「引用」を続ける。私たちが話したり書いたりする文は手垢にまみれた「常套句」や「慣用句」からなっている。私たちは他人がすでに使った言い回しを借りながら、自分の思いを表現している。ほとんどの場合はそれで十分に用が足りている。私たちが独創的な自前の文を作ることなど滅多にあるものではない。
「引用」は私たちの言語活動の根幹を形づくっている。
だから私は、巷間に流布する、作文における独創性や個性の奨励をちっとも信じる気になれない。言語活動の基本が「引用」であるとすれば、作文教育を根本的に見直す必要がありはしないか。「思ったとおりに書け」「話すように書け」「あるがままに書け」――この指導法は、生徒の自主性を尊重し、各自の個性を伸ばそうという「民主的」教育方針を作文指導にも応用したものだろう。よほど個性が強くて才能豊かな生徒はいざしらず――この連中はどんな教え方をしてもよい結果を出すものだが――この指導法は一般の生徒たちには無用の混乱を引き起こす。この類いの作文指導は思想(考えること)と言語表現(書くこと)を短絡させているのだ。
◆話し言葉と書き言葉
ところで「言語表現」と一口にいっても、「話すこと」と「書くこと」とはまったく別のことである。この重大な事実を人はつい見落としがちである。そこから無用の混乱が生じる。
まず話し言葉と書き言葉の基本的な違いというものを押さえておかなければならない。服装でたとえれば話し言葉は「カジュアル」であり、書き言葉は「フォーマル」であると言える。話し言葉はラフであり、自由である。それにひきかえ書き言葉はいろいろとうるさい形式的な注文がつく。この両者の違いは実際にはどういう形で現れるのか。この二つを区別する指標のようなものはあるのか。
話し言葉には文法的に不正確な文、尻切れトンボの文、断片的な文、支離滅裂な文など形式的に不備な文が多く見られる。こうした話し言葉の性格はその即興性に原因が求められる。話し言葉は瞬間的なものであり、そのプロセスが問題になる。だから全体として復元してみれば欠陥だらけの文の集まりというようなことはありうる。このことは録音した談話を再現してみればすぐに分かることだ。つまり「話すように」は書けないのである。
それではこんな不完全な言語表現でどうしてコミュニケーションが成立するかといえば、それは発話環境(言語場)に大いに助けられているからだ。顔の表情、身振り・手振り、発音の仕方、対話者の応答など、人は話すときにいろいろな補助手段を駆使している。話し言葉とは自然体の、発話環境に依存した言語行為であるといえよう。
書き言葉は話し言葉の自然さを享受することができない。ここではプロセスではなく結果がすべてである。話し言葉を補完していたものはすべて当てにできない。自己完結性と形式的完全性が求められる。書き言葉はきちんとした文でなければならない。つまり書き言葉は話し言葉より厳しい条件(規則)を課されているわけである。発話環境が代弁してくれていたものをすべて言語化しなければならない。たとえば会話で「あれはそんなでこうなったよ」と言えばすんだものを文章では「あのプロジェクトは上層部に一部慎重論があってこんな風に現場でもう一度練り直さなければならなくなった」ときちんと言葉で言い尽くさなければならない。だから話せても書けないのは当然の結果である。書くことのおっくうさや煩わしさはこの余計な言語作業に対する抵抗感(拒絶反応)に起因する。しかしながら先に見た話し言葉の場合とは異なり、「書くように話す」ことは可能である。四角張り、重苦しくはなるけれども。原稿を読み上げるスピーチや講演を考えれば納得がいくはずだ。書き言葉は自立的で、人為的=人工的であるといえよう。
要するに話し言葉と書き言葉を分ける指標は次の二つということになる。
(1) 即興的=自然的/錬成的=彫琢的
(2) 発話環境依存的/自己完結的
しかしながら話し言葉と書き言葉を分かつものはこれだけではない。もっと根本的なものとして「文法」の違いがある。つまり話し言葉と書き言葉は同じ国語でありながら別のタイプの言葉と見なさなければならない。事情は英語でもフランス語でも日本語でも、およそ文字をもつ言語であれば多かれ少なかれこうした傾向は見られる。なぜこのことが出てくるのかというと、音はどんどん変化していくのに対して文字は「保守的」だからだ。したがって書き言葉は話し言葉よりも歴史の重み(伝統)を背負い込んでいる。この二つの言葉は似て非なるものと言わなければならない。
話し言葉から見たら書き言葉はむしろ「外国語」と見なすほうがいい。それくらいその隔たりは大きいのだ。漢字、仮名、カタカナという、世界でも稀な複雑な文字体系をもつ日本語の場合はわけてもそういうことが言える。なまじ同じだと思い込むから話はややこしくなるので、「外国語」と割り切ればいろいろと腑に落ちることがある。たとえば「とっても」は会話では使えるが文章では普通は使えない。語彙においてすでにしてこうなら構文においてはなおさらだろう。話し言葉の語彙や構文は高が知れているが(だからこそ人は特に意識せずに日々支障なく「話している」わけなのだが)、伝統を抱える書き言葉の場合はそうは問屋がおろさない。
してみれば書くためには特別の「技術」や「知識」が求められる。話せても書けないという事態が生じてもけだし当然だろう。
*この続きは製品版でお楽しみください。
本当に不思議である。頭の中ではきっちりまとまっていたように思えた考えをいざ書こうとする段になると、どうしても文字にならない。ほんの少し前まではあんなに明瞭だったのにと歯がゆい思いをする。どうして考えていることが書けないのか。あるいはまた、うまく話せたことをそのまま文章にしようとしたら、とたんに言葉に詰まる。これは一体どういうことなのか。みなさん、そんな経験をしたことはありませんか。
どうやら「書く」ということは一筋縄ではいかない行為のようだ。
「書くこと」には「話すこと」「思うこと」とは別のメカニズムが働いているらしい。それは果たしてなんだろうか。そのメカニズムさえ突きとめられれば、すらすらと書けること請け合いなのだが……。
そもそも書くとはどういうことなのか。この問題を本格的に論じようとすればそれこそもう一冊の本を必要とする大問題だが、ここではあくまでも「作文」に即して考えてみたい。
「作文」とは文字どおりにとれば「文を作ること」だ。この場合「作る」には「創造」と「でっちあげる」といういい意味と悪い意味がある。いずれにしても「無からの創造」である。ここには、書くという行為は人間が主体的におこなう行為であるという大前提がある。そして、言葉は人間の言いなりになる手軽な道具、思想を伝える手段であるとされる。しかし、この前提は正しいだろうか。そして言葉は、思想を伝える道具や手段にすぎないのだろうか。ふだん人間は素朴に自分が語っている、自分が書いていると思い込んでいるけれども、本当にそうなのだろうか。
この疑問をラディカル(根本的/過激)に問題にしたのが、「構造主義」に端を発する現代思想である。小難しい議論の核心のところを要約すれば、「誰が語るのか」という疑問が発せられ、「言語が語るのだ」という答えが返ってきたということになるだろう。つまり「語る主体」としての人間という伝統的な主知的人間観は音を立てて崩れ去ったということだ。言語は一つの体系(構造)であり、語る人間より以前にすでに「構成された構造」として存在する。人間が語るというよりは人間は言語という構造を通して、あるいは言語という構造(たとえば、日本語やフランス語という体系)を通してしか語りえない。だから人間が語るというよりは言語が人間をして語らせる、言語が語るというべきなのだ。詩人とか哲学者といった特権的人間だけが言語の構造に揺さぶりをかけ、言語の流動化に挺身する。人間は言語によって語らされている――これが現代言語思想の結論(?)である。
この結論は書く人間が日頃もやもや感じている疑問に確かに部分的に答えている。興に乗って書いているとき、人は自分が何者かによって突き動かされているのを感じる。文が文を呼び、ひとりでに文章ができあがってゆく。自分より大きなものによって拉致されているのを覚える。そのとき人は言語に素直に耳を傾けているのである。言い換えれば自分が書いているんだというような思い上がった気持ちを棄てるとき、言語は普段とは異なった顔――本来の顔だろうか――をみせる。
上で述べたことは抽象的でわかりにくいかもしれない。しかしそんなに難しいことを言っているわけではない。文章を書くとは一般の予想とは反対に「無からの創造」ではない。すでにあるものをいかにうまく利用する(選択する)かの問題なのだ。誤解を恐れずあえて言えば書くとは「引用」である。このことを日常的場面で確認してみよう。
たとえば幼児の言語習得の過程を思い描いてみよう。幼児は母親の言葉を真似る。それは母親の言葉の引用である。幼児は母親の言葉を盗んでいるのだと言ってもよい。しかしこの引用は一方的な行為ではないことに注意しなければならない。引用の仕方が悪いと母親のチェックを受ける。引用とチェック、この二つのプロセスを繰り返しながら幼児は言語能力を高め、言語を習得してゆく。
言語を習得しても私たちは相変わらず「引用」を続ける。私たちが話したり書いたりする文は手垢にまみれた「常套句」や「慣用句」からなっている。私たちは他人がすでに使った言い回しを借りながら、自分の思いを表現している。ほとんどの場合はそれで十分に用が足りている。私たちが独創的な自前の文を作ることなど滅多にあるものではない。
「引用」は私たちの言語活動の根幹を形づくっている。
だから私は、巷間に流布する、作文における独創性や個性の奨励をちっとも信じる気になれない。言語活動の基本が「引用」であるとすれば、作文教育を根本的に見直す必要がありはしないか。「思ったとおりに書け」「話すように書け」「あるがままに書け」――この指導法は、生徒の自主性を尊重し、各自の個性を伸ばそうという「民主的」教育方針を作文指導にも応用したものだろう。よほど個性が強くて才能豊かな生徒はいざしらず――この連中はどんな教え方をしてもよい結果を出すものだが――この指導法は一般の生徒たちには無用の混乱を引き起こす。この類いの作文指導は思想(考えること)と言語表現(書くこと)を短絡させているのだ。
◆話し言葉と書き言葉
ところで「言語表現」と一口にいっても、「話すこと」と「書くこと」とはまったく別のことである。この重大な事実を人はつい見落としがちである。そこから無用の混乱が生じる。
まず話し言葉と書き言葉の基本的な違いというものを押さえておかなければならない。服装でたとえれば話し言葉は「カジュアル」であり、書き言葉は「フォーマル」であると言える。話し言葉はラフであり、自由である。それにひきかえ書き言葉はいろいろとうるさい形式的な注文がつく。この両者の違いは実際にはどういう形で現れるのか。この二つを区別する指標のようなものはあるのか。
話し言葉には文法的に不正確な文、尻切れトンボの文、断片的な文、支離滅裂な文など形式的に不備な文が多く見られる。こうした話し言葉の性格はその即興性に原因が求められる。話し言葉は瞬間的なものであり、そのプロセスが問題になる。だから全体として復元してみれば欠陥だらけの文の集まりというようなことはありうる。このことは録音した談話を再現してみればすぐに分かることだ。つまり「話すように」は書けないのである。
それではこんな不完全な言語表現でどうしてコミュニケーションが成立するかといえば、それは発話環境(言語場)に大いに助けられているからだ。顔の表情、身振り・手振り、発音の仕方、対話者の応答など、人は話すときにいろいろな補助手段を駆使している。話し言葉とは自然体の、発話環境に依存した言語行為であるといえよう。
書き言葉は話し言葉の自然さを享受することができない。ここではプロセスではなく結果がすべてである。話し言葉を補完していたものはすべて当てにできない。自己完結性と形式的完全性が求められる。書き言葉はきちんとした文でなければならない。つまり書き言葉は話し言葉より厳しい条件(規則)を課されているわけである。発話環境が代弁してくれていたものをすべて言語化しなければならない。たとえば会話で「あれはそんなでこうなったよ」と言えばすんだものを文章では「あのプロジェクトは上層部に一部慎重論があってこんな風に現場でもう一度練り直さなければならなくなった」ときちんと言葉で言い尽くさなければならない。だから話せても書けないのは当然の結果である。書くことのおっくうさや煩わしさはこの余計な言語作業に対する抵抗感(拒絶反応)に起因する。しかしながら先に見た話し言葉の場合とは異なり、「書くように話す」ことは可能である。四角張り、重苦しくはなるけれども。原稿を読み上げるスピーチや講演を考えれば納得がいくはずだ。書き言葉は自立的で、人為的=人工的であるといえよう。
要するに話し言葉と書き言葉を分ける指標は次の二つということになる。
(1) 即興的=自然的/錬成的=彫琢的
(2) 発話環境依存的/自己完結的
しかしながら話し言葉と書き言葉を分かつものはこれだけではない。もっと根本的なものとして「文法」の違いがある。つまり話し言葉と書き言葉は同じ国語でありながら別のタイプの言葉と見なさなければならない。事情は英語でもフランス語でも日本語でも、およそ文字をもつ言語であれば多かれ少なかれこうした傾向は見られる。なぜこのことが出てくるのかというと、音はどんどん変化していくのに対して文字は「保守的」だからだ。したがって書き言葉は話し言葉よりも歴史の重み(伝統)を背負い込んでいる。この二つの言葉は似て非なるものと言わなければならない。
話し言葉から見たら書き言葉はむしろ「外国語」と見なすほうがいい。それくらいその隔たりは大きいのだ。漢字、仮名、カタカナという、世界でも稀な複雑な文字体系をもつ日本語の場合はわけてもそういうことが言える。なまじ同じだと思い込むから話はややこしくなるので、「外国語」と割り切ればいろいろと腑に落ちることがある。たとえば「とっても」は会話では使えるが文章では普通は使えない。語彙においてすでにしてこうなら構文においてはなおさらだろう。話し言葉の語彙や構文は高が知れているが(だからこそ人は特に意識せずに日々支障なく「話している」わけなのだが)、伝統を抱える書き言葉の場合はそうは問屋がおろさない。
してみれば書くためには特別の「技術」や「知識」が求められる。話せても書けないという事態が生じてもけだし当然だろう。
*この続きは製品版でお楽しみください。
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