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プロジェクトX 挑戦者たち 熱き心、炎のごとく 男たちのH−IIロケット 天空へ

プロジェクトX 挑戦者たち 熱き心、炎のごとく 男たちのH−IIロケット 天空へ

著: NHK「プロジェクトX」制作班
発行: 日本放送出版協会
シリーズ: プロジェクトX 挑戦者たち
価格:105円(税込)
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解説

 日本が誇る純国産ロケット、H-II。
 それは、日本の先端技術の粋を尽くした、技術者たちの意地の結晶だった。
 昭和30年代の開発黎明期から、平成6年のH-IIロケット打ち上げ成功まで、40年にわたる男たちの熱き戦い。
 「ロケット開発の父」と言われる東大教授糸川英夫が、日本初のロケット発射実験を行ったのは、昭和30年。使われたロケット「ペンシルロケット」は、大きさ23センチの小さなものだったが、その影響は計り知れなかった。この実験を知り、多くの若者がロケット開発を志していく。
 しかし、その後のロケット開発は苦難の連続だった。計画は難航し、ついにアメリカの技術を導入することを余儀なくされる。技術の一部は、日本の技術者は全く見ることのできない「ブラックボックス」になっていた。
 国産ロケット計画実現に向けての技術者たちの執念の戦いを描く。

目次

一 国産大型ロケットの曙
二 再出発
三 幾重もの壁を越えて
四 天空への総力戦

抄録

一 国産大型ロケットの曙


 H‐IIロケットへの長い道のり


 「二七、二六、二五。電気系準備完了。二四、二三、二二、二一、二〇、一九、一八……」
 一九九四(平成六)年二月四日未明。最終の秒読みが続く、種子島宇宙センター。
 日本中の目が、一台のロケットに注がれていた。ロケットの名は、「H‐II」。エンジンから機体まで日本の技術の総力を結集した、純国産ロケットだった。
 現在の宇宙開発事業団の前身、まだ新設されたばかりだった宇宙開発推進本部がロケットの開発に乗り出しはじめたのは、一九六五(昭和四〇)年。
 ちょうど、東京大学生産技術研究所の糸川英夫教授らのグループが、「ラムダロケット」で高度二〇〇〇キロメートルに到達し、重さ三〇キログラムほどの科学観測衛星を打ち上げる「ミューロケット」完成まで、あと五、六年と考えられていたころだった。全長三〇センチ、重量二三〇グラムの「ペンシルロケット」から始め、「ベビーロケット」、「カッパロケット」と徐々に大型化させてきた糸川教授らの研究は、着々と成果を上げてきていた。
 しかし、アメリカとソ連(現・ロシア)の進歩はあまりに急だった。どちらも国家の総力を挙げたプロジェクトだった。一九六〇年代半ば、米ソのロケット開発はすさまじいものになっていた。
 その中心に、急速に進歩する人工衛星があった。大陸の天候を丸ごと観測する気象衛星。膨大な情報を瞬時に送る通信衛星。そして宇宙から世界を丸裸にする偵察衛星。いち早く人工衛星を宇宙に上げれば、覇権を握れる。アメリカでは、ダグラス、ロッキードなど巨大メーカーと国家が一体になり、ロケット開発にあたっていた。
 日本で、糸川教授らのものとは別に大型ロケットの開発プロジェクトが始められたのも、重量が数百キロ以上と、科学観測衛星よりかなり重い実用人工衛星を打ち上げるためだった。
 しかし、大型ロケットの開発には極限の技術を要し、まもなく行き詰まった。
 このままではいけない。やがて男たちが立ち上がった。日本の技術で日本の大型液体ロケットをつくる。一九八五(昭和六〇)年、純国産の大型ロケット、H‐IIの開発プロジェクトが始まった。
 H‐IIロケットの開発は、すさまじい一〇年戦争になった。謎の爆発が続いた。愛する仲間を失った。それでも負けるわけにはいかなかった。男たちの人生を巻き込みながら、技術立国・日本の命運を懸けた闘いの火ぶたが、切って落とされた。
 これは男たちが挑んだ、飽くなき闘いのドラマである。


 一〇年で大型ロケットを開発せよ


 一九五九(昭和三四)年、東京・三鷹の航空技術研究所に、一人の研究者がやって来た。竹中幸彦、三七歳。東京大学の航空研究所で、金属疲労の研究をしていた男だった。当時開発中だった国産旅客機YS‐11や、超音速機のための研究開発要員として招かれたのだ。
 竹中は、部下なしの大学講師から、六人の部下と年間数百万円という多額の研究費を持つ、熱弾性研究室長となった。しばらくは自分の専門分野の研究に没頭した。しかし、そうした日々は、長くは続かなかった。
 一九六一(昭和三六)年、ソ連はユーリー・ガガーリン宇宙飛行士を『ボストーク1号』に乗せて、初の有人宇宙飛行を成功させた。アメリカも翌一九六二年には、ジョン・グレン宇宙飛行士を乗せた『フレンドシップ7号』であとに続いた。その一方でアメリカは、一九六〇年に気象衛星『タイロス』、航行衛星『トランシット』、偵察衛星『ミダス』を、さらに通信実験衛星『エコー』を打ち上げた。一九六三年には高度三万六〇〇〇キロメートルの静止軌道に打ち上げられた通信衛星『シンコム』が、人工衛星によって、電話の国際中継ばかりかテレビの国際中継放送も可能なことを証明した。
 一九六〇年代初めは、人工衛星の様々な可能性が見えてきて、宇宙開発が米ソだけでなく、どの国にも注目されるようになった時代だった。それが、竹中の人生の方向を大きく変えた。
 科学技術庁は一九六〇年から宇宙開発研究の取りまとめ機関となり、それを受けて航空技術研究所も一九六三年に「航空宇宙技術研究所」となって、「ロケット部」が新設された。そして一九六四年、国は内外の実用人工衛星への注目を背景に、科学技術庁に「宇宙開発推進本部」を設置。実用人工衛星の打ち上げ用ロケット開発を指示した。一九六一年ごろから所内のロケット技術勉強会に参加していた竹中は、研究所にロケット部ができると熱弾性室との併任を命じられ、一九六五年半ばからは宇宙開発推進本部のロケット開発室長をも兼務することになった。
「お前は(超音速機という)近いことをやってるんだから、開発室長になれ、と。四〇代前半で研究にもいちばん脂が乗ってきたときだったし、一度は断ったんです。しかし、科技庁および研究所幹部の一致した意見で決めたことだからと押し切られまして」
 自分の研究とロケット開発の仕事を両立させるしかない。そう腹を決めて、ロケット開発室長に就任した竹中。科学技術庁から大まかな開発目標を告げられて、度肝を抜かれた。
 五年後の一九七〇(昭和四五)年に、重量一五〇キログラムの人工衛星を、高度一〇〇〇キロメートルに打ち上げる。そのまた五年後に、一〇〇キログラムの静止衛星を打ち上げる。そう言うのである。
 高度一〇〇〇キロメートルはよい。糸川たちのロケットはすでに実現していた。しかしまだ一個の人工衛星を打ち上げた経験もない日本に、たった五年で、一五〇キロもの重さの人工衛星を打ち上げることができるのか。巨大なロケットエンジン、精密な管制、誘導技術が要る。
 しかし、とにかく第一歩を踏み出さなければ事は進まない。航空宇宙技術研究所から人材を調達して宇宙開発推進本部併任とし、プロジェクトチームが組織された。
 プロジェクトは、「液体ロケット」、および「固体ロケット」を組み合わせた大型ロケットの開発をめざすことになった。
 ロケットには固体燃料を使う「固体ロケット」と、液体燃料を使う「液体ロケット」がある。糸川教授らは固体ロケットで開発を進めていたが、米ソのロケットの多くは固体と液体を組み合わせたものだった。構造が簡単で信頼性が高い固体ロケットと、小型で大推力、速度(推進力)を調節しやすい液体ロケット。両方の利点を利用するためである。
 そこで、「液体」、「固体」を使った様々な組み合わせ案が考え出された。組み合わせ案のなかから選ばれたのが、下から「固体、固体、液体、固体」という、四段ロケット案だった。対案は「液体、液体、固体」という、アメリカなどではすでに一般的になっていた三段ロケットである。しかし、第一段ロケットに使えるような大型の液体ロケットエンジンは、当時の日本にはまだ開発実績がなかった。それに対して、固体ロケットの開発実績は糸川教授らのところにある。五年という短い開発期間を考えると、固体ロケット中心でいくのが安全だったのだ。
 宇宙開発推進本部では、この全長二八メートル、一段目の直径が一・八メートルほどになるはずの四段ロケットを、「Nロケット」と名づけた。
 Nロケットのシステム設計が決まると、直ちに具体的な開発が始まった。
 大きな推進力で宇宙に飛び出し、狙った軌道にピタリと到達して人工衛星を切り離すロケット開発には、大別してロケットエンジン、誘導制御技術、機体という三つの開発分野がある。さらに打ち上げ時の管制技術、発射場の整備など地上側の開発がある。まだ自前の発射場すら持っていなかった宇宙開発推進本部によるNロケット開発は、その各分野で、ほとんどゼロからの出発になった。
 実際にものをつくるメーカーは、一、二段の固体ロケットが日産自動車(富士精密工業の後身にあたる)、三段の液体ロケットと四段の固体ロケットが三菱重工業。誘導制御システムはジャイロ装置などが日本航空電子、ソフトウェアなどが日本電気(NEC)、姿勢制御用ガスジェット装置が石川島播磨重工などだった。
 国産大型ロケット開発の本格始動だった。
 その間、国内では通信衛星や放送衛星の待望論がますます強まっていた。それらの衛星は高度三万六〇〇〇キロメートルの静止軌道上に置かれなければならない。そのため国は一九六七年末に、一九七四年を目標に一〇〇キログラム級の静止衛星を打ち上げること、Nロケットはその打ち上げ用ロケットにすることを決めた。
 さらに一九七二年を目標に、一五〇キログラムの衛星を高度一〇〇〇キロメートルの軌道に乗せる「Qロケット」の開発計画を打ち出した。当初の設計では、Nロケットと同じ「固体、固体、液体、固体」の四段型だが、全長三〇メートル、一段目の直径二・三メートルと一回り以上太く、打ち上げ時重量も一四〇トンと二倍以上の重さになるというものだった。
 本格化するQ、Nロケットの開発。航空宇宙技術研究所と兼務していた竹中幸彦は、徐々に時間のほとんどをロケット開発に取られるようになった。一九六八(昭和四三)年、竹中は宇宙開発推進本部の専任となる。もはや研究との両立は不可能だった。


 アメリカ巨大航空宇宙メーカーの戦略


 日本で国産大型ロケット計画が構想されはじめたころ、アメリカは、ある戦略を進めていた。
 すでに、月に人間を送り込む「アポロ計画」が進んでいたアメリカの宇宙開発。人工衛星や宇宙船を打ち上げるためのロケット技術は、ソ連以外の国を何周分も「周回遅れ」にするほど、大きく引き離していた。そのロケット技術を他の国に売り込む戦略である。
 ただし、ロケット技術は「ミサイル」技術に直結するので、東西冷戦でいう西側の、それも関係の深い同盟国にしか売ることができない。そこで日本がクローズアップされたのだった。
 発端は一九六七(昭和四二)年一一月、ワシントンで行われた日米首脳会談だった。ちょうどベトナム戦争を戦っていたアメリカに世界の非難が集中し、日本では沖縄返還が叫ばれていたころである。その会談で、首相佐藤栄作とアメリカ大統領リンドン・ジョンソンは「日米の宇宙開発協力の可能性について深く検討した」と発表された。そして一九六八年一月、駐日アメリカ大使アレクシス・ジョンソンから佐藤首相に、「米国は対日協力の用意がある」とのメモが手渡された。
 日本政府の返事は遅れた。ちょうど、宇宙開発体制の強化のために「宇宙開発委員会」を新設し、同時に宇宙開発推進本部を特殊法人化する準備が進んでいた。これは、従来の文部省東京大学宇宙航空研究所・生産技術研究所と、科学技術庁宇宙開発推進本部・航空宇宙技術研究所と二本立てで進んでいたロケット開発を、宇宙開発委員会の下に一本化しようという構想でもあった。アメリカには、その組織改編が終わったら返事をしようということになったのである。
 一九六八年八月。組織改編の第一弾として、宇宙開発の方針を決める宇宙開発委員会が発足。委員会は一二月になって、「技術導入」を前提にアメリカ政府と具体的な交渉に入ることを決定した。


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