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プロジェクトX 挑戦者たち 新たなる伝説、世界へ 逆転 田舎工場 世界を制す/クオーツ・革命の腕時計
著: NHK「プロジェクトX」制作班発行: 日本放送出版協会
シリーズ: プロジェクトX 挑戦者たち
価格:105円(税込)
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解説
時を限りなく正確に刻む。そんな夢を叶えた時計がある。世界初のクオーツ腕時計。電気を流すと正確な振動を繰り返す水晶=クオーツクリスタルを使い、一日わずか0.2秒の誤差を実現した夢の時計である。昭和44年に発売されると、たちまち革命を引き起こし、今やクオーツは全世界の腕時計の98%を占めるまでになった。
時計を作り上げたのは、故郷を再生しようと立ち上がった男たちだった。
かつて製糸業で栄えた信州・諏訪湖一帯。ここで生まれた時計工場があった。「諏訪精工舎」。工場長は地元商店街の時計店店主だった山崎久夫。化学繊維の登場で壊滅的な打撃を受けた町を何とか蘇らせたいと時計作りを決意した。職を失っていた女工を雇い、ゼンマイ腕時計の生産を開始した。女工たちが繊細な指先で組み立てた時計はその正確さで評判となった。
しかし、アメリカで全く新しい技術を使った電子時計が発売されると、圧倒的な正確さで、たちまち大ヒットした。同じ技術を使って開発しようにも、特許の厚い壁が立ちはだかった。窮地に追い込まれた山崎たちは、一つの技術に全てを賭けた。それまで、世界中の技術者が挑戦してもできなかったクオーツ腕時計の開発だった。
開発は困難を極めた。当時、世界最小のクオーツ時計でもタンスより大きかった。超小型化と超省電力化が必要だった。しかも、全く耐震性がなかった。さらに世界の時計王国スイスがこぞってクオーツ腕時計の開発に乗り出した。それでも山崎はあきらめることなく全国の大学を回り、学生を口説き続けた。その熱意に打たれた若き技術者たちが諏訪に集い、奇跡の時計の開発に挑んでいく。
故郷の復活に立ち上がった男と、その心意気に応えた若手技術者たちの、今に語り継がれる逆転のドラマを描く。
時計を作り上げたのは、故郷を再生しようと立ち上がった男たちだった。
かつて製糸業で栄えた信州・諏訪湖一帯。ここで生まれた時計工場があった。「諏訪精工舎」。工場長は地元商店街の時計店店主だった山崎久夫。化学繊維の登場で壊滅的な打撃を受けた町を何とか蘇らせたいと時計作りを決意した。職を失っていた女工を雇い、ゼンマイ腕時計の生産を開始した。女工たちが繊細な指先で組み立てた時計はその正確さで評判となった。
しかし、アメリカで全く新しい技術を使った電子時計が発売されると、圧倒的な正確さで、たちまち大ヒットした。同じ技術を使って開発しようにも、特許の厚い壁が立ちはだかった。窮地に追い込まれた山崎たちは、一つの技術に全てを賭けた。それまで、世界中の技術者が挑戦してもできなかったクオーツ腕時計の開発だった。
開発は困難を極めた。当時、世界最小のクオーツ時計でもタンスより大きかった。超小型化と超省電力化が必要だった。しかも、全く耐震性がなかった。さらに世界の時計王国スイスがこぞってクオーツ腕時計の開発に乗り出した。それでも山崎はあきらめることなく全国の大学を回り、学生を口説き続けた。その熱意に打たれた若き技術者たちが諏訪に集い、奇跡の時計の開発に挑んでいく。
故郷の復活に立ち上がった男と、その心意気に応えた若手技術者たちの、今に語り継がれる逆転のドラマを描く。
目次
一 信州・諏訪を、東洋のスイスに
二 世界初のクウォーツ腕時計開発へ
三 若手技術者たちの苦闘
四 世界を制したクウォーツ技術
二 世界初のクウォーツ腕時計開発へ
三 若手技術者たちの苦闘
四 世界を制したクウォーツ技術
抄録
一 信州・諏訪を、東洋のスイスに
日本一の生糸の町・諏訪
東京から西へ約二〇〇キロ。標高七五九メートルにある諏訪湖のほとりに広がる小さな町、信州・上諏訪(長野県諏訪市)。明治から昭和初期にかけて、この湖一帯は日本一の生糸の町として栄えた。しかし、化学繊維の登場と、戦争による需要の激減により、町はみるみる衰退の道をたどっていた。
「時計づくりで、町をよみがえらせよう」
太平洋戦争の真っただ中にあった昭和一七(一九四二)年、日本中のありとあらゆる工場が戦車や戦闘機の生産に追われるなかで、一人の男が立ち上がった。山崎久夫。商店街の時計店の主人だった。古びた「味噌蔵」を改造した小さな工場に、失業した生糸女工などを集めて、こつこつと腕時計を組み立てはじめた。
戦後、山崎は「諏訪を東洋のスイスにしよう」という思いを胸に、全国行脚の末、若い技術者を諏訪に招き入れた。そして山崎の死後、その遺志を継いだ男たちは、画期的な精度を持つ世界初の「クオーツ(水晶)腕時計」をつくり上げた。
かつての機械式、すなわちゼンマイ式腕時計は、進んだり遅れたりして狂うのが当たり前だった。一日に一分、月に三〇分以上狂った。週に何度もゼンマイを巻き、年に一度は分解掃除をしなくては、まともに時を刻んではくれなかった。運転手の不正確な時計が原因で、悲惨な列車事故が起きることもしばしばだった。
「時計は狂うもの」。その常識を根底から覆した革命的な発明こそ、諏訪の人々が生み出したクオーツだった。水晶がつむぎ出す毎秒三万回以上の振動を利用し、一日〇・五秒と狂わない精度を誇るクオーツ腕時計は、この町で生まれたのだ。
現在、全世界の腕時計の九八パーセントはクオーツ式といわれる。いまや日本は世界一のクオーツ時計生産国になった。そしてクオーツの技術は腕時計だけでなく、卓上式時計はもちろん、ビデオ、エアコン、ノートパソコン、カメラ……ありとあらゆるエレクトロニクス製品に活かされている。
「信州の山猿に、時計などつくれるわけがない」とバカにされたこともあった。それでも決してくじけずにひたすら時計づくりにいそしんだ山崎と女性工員、そして若き技術者たち。これは、落ちぶれた故郷の復活に命を懸けた一人の男と、その心意気に応えた若き技術者たちの、意地と執念の物語である。
時計商・山崎久夫という男
信州・諏訪。かつて諏訪湖一帯は、日本一の生糸の町として隆盛を誇っていた。
明治新政府が進めた殖産興業政策を受けて、新生日本の花形産業となる製糸業に、それまでひなびた農村だった諏訪地方はいち早く名乗りを上げた。町の多くの人は製糸工場で働き、農民は桑を植え、蚕を育て、繭を製糸工場に納めた。近代的な器械製糸を導入し、また地場産の蚕を使うことで、非常に生産効率がよい工場が建ち並ぶこの諏訪湖一帯は、近代産業革命のお手本とさえいわれた。
しかし時代も昭和に入ると、ナイロン、レーヨンなど化学繊維の登場と、度重なる戦争の影響によって、隆盛をきわめた製糸工場は次々と閉鎖され、日本一の生糸の町は壊滅的な打撃を受けた。
基幹産業を失って寂しくなるばかりの町の状況に対して、「このままでは食えなくなる」と、商店街の店主たちはみな危機感を募らせていた。仕事のかたわら、連日集まっては話し合いを続けた。
「この町には、製糸業に代わる新しい産業が絶対に必要だ」
みな口々に言った。しかし、諏訪は東京や大阪など大都市からも遠く、また海からも遠く離れた山国だった。製鉄や造船などの重厚長大産業を新たに誘致することなど不可能に近かった。具体的な打開策はないように思えた。
ある日、一人の男がとんでもないことを言い出した。
「おい、スイスを知ってるか。以前、本でスイスのことを読んだ。諏訪と同じ山国だが、世界に名だたる時計王国だ」
そう切り出したのは山崎久夫。商店街の山崎屋時計店の二代目だった。
山崎は明治三七(一九〇四)年、父・常次郎、母・たけの二男として生まれた。大正八(一九一九)年に尋常高等小学校を卒業。山崎の兄に当たる長男は生後まもなく死亡しており、山崎は跡継ぎとなるべく、一五歳で東京の服部時計店に奉公に出た。目標は、時計王と謳われた服部金太郎(服部時計店の創業者)。「服部翁に学び、必ず大時計店になる」と、小学校の同級生に語ったという。
幼少期、家業は決してうまくいっておらず、姉・みよは製糸工場の女工として働き、妹・みちは蚕の種の検査の仕事をしていた。
大正一二(一九二三)年、関東大震災で服部時計店が全焼し、これを契機に諏訪に戻り、翌大正一三年に若干二〇歳で家業を継いだ。厳しい修業で培った販売ノウハウと精力的な仕事ぶり、そして時計以外にも蓄音機やレコード販売に手を広げて、店を盛り返していた。
しかし、昭和一〇年代に入ると戦時統制が厳しくなり、工業品全般の生産制限や価格統制が行われた。時計業者もその影響をもろに受けて、利益は大幅に落ち込んだ。
何とかしなくてはいけない。町も没落する一方だ。山崎は自分にできることは何かと自らに問うた。それは時計の製造だった。時計ならつくれる。それも腕時計なら都会に運ぶことも容易なはずだ。
「諏訪で腕時計をつくるんだ。諏訪を東洋のスイスにしよう」
町の仲間の期待を背負って、山崎は動いた。
それは「味噌蔵」から始まった
昭和一四(一九三九)年夏、山崎は元の奉公先である服部時計店を訪ねて仕事を請うた。紹介されたのは同社の製造部門に当たる「第二精工舎」の布施義尚取締役工務部長だった。
「腕時計“ネイション”の組み立てをやりませんか」
そんな布施の言葉に、山崎は昭和一五年春に店の二階を改造して工場代わりとし、女工六人を雇って下請け仕事を始めた。諏訪における時計工業、精密工業がスタートを切った。
ちなみに、「セイコー」ブランドで知られる服部時計店は明治一四(一八八一)年に創業。明治二八(一八九五)年には時計製造工場として「精工舎」を設立し、掛け時計の製造を開始した。明治三一(一八九八)年には本社を銀座四丁目に移し、交差点角に銀座のシンボルとして親しまれることとなる時計台を設置した。「第二精工舎」は精工舎の懐中時計製造部門を分離独立させて昭和一二(一九三七)年に設立された。
昭和一六(一九四一)年八月、上諏訪町は豊田村、四賀村との合併により「諏訪市」となり、新たな市制がスタートした。しかし、没落する一方の町にみな不安を隠しきれずにいた。山崎は、第二精工舎の本格的な工場を諏訪に持ってきたいと考えはじめていた。
しかし、自ら起業する資金など皆無だった。そこで山崎は、初代諏訪市長となった宮坂伊兵衛ら行政を巻き込んで、第二精工舎にかけ合った。宮坂も山崎の起業を快くバックアップした。町の衰退をくい止めようという思いは同じだったからだ。
東京・亀戸にあった第二精工舎に山崎や宮坂らは足繁く通い、ついに出資を取りつけた。店の二階では狭すぎるということで、山崎は諏訪の市街を物色して、ある古い「蔵」に目をつけた。地元企業の丸中醸造が信州味噌を貯蔵していた。
「ここを改造すれば、工場になるぞ」
昭和一七(一九四二)年五月、資本金三万円で有限会社「大和工業」が発足した。第二精工舎の布施が代表取締役となり、山崎は取締役工場長に納まった。敷地面積約二九〇坪、味噌蔵を改造した七〇坪あまりの味噌臭さが残る工場のなかで、山崎や布施がかき集めた数人の技術者、そして近隣の女性たちも集まり、総勢二二人による時計部品製造の下請け仕事が、本格的に始まった。
なかには失業した生糸女工もいた。生糸を紡いだ繊細な指先を駆使して、彼女たちは慣れない時計の組み立て作業に必死で取り組んだ。山崎は一人ひとりに給料を直接手渡すと、いつも「ご苦労さん」と声をかけた。当時一七歳、元生糸女工だった伊藤寿は回顧する。
「ご苦労さん、また頑張ってくれといって給料袋を手渡してくれる山崎さんの優しさがうれしくて、受け取る手が震えたのを覚えています。本当にありがたいなぁと思いましたよ」
*この続きは製品版でお楽しみください。
日本一の生糸の町・諏訪
東京から西へ約二〇〇キロ。標高七五九メートルにある諏訪湖のほとりに広がる小さな町、信州・上諏訪(長野県諏訪市)。明治から昭和初期にかけて、この湖一帯は日本一の生糸の町として栄えた。しかし、化学繊維の登場と、戦争による需要の激減により、町はみるみる衰退の道をたどっていた。
「時計づくりで、町をよみがえらせよう」
太平洋戦争の真っただ中にあった昭和一七(一九四二)年、日本中のありとあらゆる工場が戦車や戦闘機の生産に追われるなかで、一人の男が立ち上がった。山崎久夫。商店街の時計店の主人だった。古びた「味噌蔵」を改造した小さな工場に、失業した生糸女工などを集めて、こつこつと腕時計を組み立てはじめた。
戦後、山崎は「諏訪を東洋のスイスにしよう」という思いを胸に、全国行脚の末、若い技術者を諏訪に招き入れた。そして山崎の死後、その遺志を継いだ男たちは、画期的な精度を持つ世界初の「クオーツ(水晶)腕時計」をつくり上げた。
かつての機械式、すなわちゼンマイ式腕時計は、進んだり遅れたりして狂うのが当たり前だった。一日に一分、月に三〇分以上狂った。週に何度もゼンマイを巻き、年に一度は分解掃除をしなくては、まともに時を刻んではくれなかった。運転手の不正確な時計が原因で、悲惨な列車事故が起きることもしばしばだった。
「時計は狂うもの」。その常識を根底から覆した革命的な発明こそ、諏訪の人々が生み出したクオーツだった。水晶がつむぎ出す毎秒三万回以上の振動を利用し、一日〇・五秒と狂わない精度を誇るクオーツ腕時計は、この町で生まれたのだ。
現在、全世界の腕時計の九八パーセントはクオーツ式といわれる。いまや日本は世界一のクオーツ時計生産国になった。そしてクオーツの技術は腕時計だけでなく、卓上式時計はもちろん、ビデオ、エアコン、ノートパソコン、カメラ……ありとあらゆるエレクトロニクス製品に活かされている。
「信州の山猿に、時計などつくれるわけがない」とバカにされたこともあった。それでも決してくじけずにひたすら時計づくりにいそしんだ山崎と女性工員、そして若き技術者たち。これは、落ちぶれた故郷の復活に命を懸けた一人の男と、その心意気に応えた若き技術者たちの、意地と執念の物語である。
時計商・山崎久夫という男
信州・諏訪。かつて諏訪湖一帯は、日本一の生糸の町として隆盛を誇っていた。
明治新政府が進めた殖産興業政策を受けて、新生日本の花形産業となる製糸業に、それまでひなびた農村だった諏訪地方はいち早く名乗りを上げた。町の多くの人は製糸工場で働き、農民は桑を植え、蚕を育て、繭を製糸工場に納めた。近代的な器械製糸を導入し、また地場産の蚕を使うことで、非常に生産効率がよい工場が建ち並ぶこの諏訪湖一帯は、近代産業革命のお手本とさえいわれた。
しかし時代も昭和に入ると、ナイロン、レーヨンなど化学繊維の登場と、度重なる戦争の影響によって、隆盛をきわめた製糸工場は次々と閉鎖され、日本一の生糸の町は壊滅的な打撃を受けた。
基幹産業を失って寂しくなるばかりの町の状況に対して、「このままでは食えなくなる」と、商店街の店主たちはみな危機感を募らせていた。仕事のかたわら、連日集まっては話し合いを続けた。
「この町には、製糸業に代わる新しい産業が絶対に必要だ」
みな口々に言った。しかし、諏訪は東京や大阪など大都市からも遠く、また海からも遠く離れた山国だった。製鉄や造船などの重厚長大産業を新たに誘致することなど不可能に近かった。具体的な打開策はないように思えた。
ある日、一人の男がとんでもないことを言い出した。
「おい、スイスを知ってるか。以前、本でスイスのことを読んだ。諏訪と同じ山国だが、世界に名だたる時計王国だ」
そう切り出したのは山崎久夫。商店街の山崎屋時計店の二代目だった。
山崎は明治三七(一九〇四)年、父・常次郎、母・たけの二男として生まれた。大正八(一九一九)年に尋常高等小学校を卒業。山崎の兄に当たる長男は生後まもなく死亡しており、山崎は跡継ぎとなるべく、一五歳で東京の服部時計店に奉公に出た。目標は、時計王と謳われた服部金太郎(服部時計店の創業者)。「服部翁に学び、必ず大時計店になる」と、小学校の同級生に語ったという。
幼少期、家業は決してうまくいっておらず、姉・みよは製糸工場の女工として働き、妹・みちは蚕の種の検査の仕事をしていた。
大正一二(一九二三)年、関東大震災で服部時計店が全焼し、これを契機に諏訪に戻り、翌大正一三年に若干二〇歳で家業を継いだ。厳しい修業で培った販売ノウハウと精力的な仕事ぶり、そして時計以外にも蓄音機やレコード販売に手を広げて、店を盛り返していた。
しかし、昭和一〇年代に入ると戦時統制が厳しくなり、工業品全般の生産制限や価格統制が行われた。時計業者もその影響をもろに受けて、利益は大幅に落ち込んだ。
何とかしなくてはいけない。町も没落する一方だ。山崎は自分にできることは何かと自らに問うた。それは時計の製造だった。時計ならつくれる。それも腕時計なら都会に運ぶことも容易なはずだ。
「諏訪で腕時計をつくるんだ。諏訪を東洋のスイスにしよう」
町の仲間の期待を背負って、山崎は動いた。
それは「味噌蔵」から始まった
昭和一四(一九三九)年夏、山崎は元の奉公先である服部時計店を訪ねて仕事を請うた。紹介されたのは同社の製造部門に当たる「第二精工舎」の布施義尚取締役工務部長だった。
「腕時計“ネイション”の組み立てをやりませんか」
そんな布施の言葉に、山崎は昭和一五年春に店の二階を改造して工場代わりとし、女工六人を雇って下請け仕事を始めた。諏訪における時計工業、精密工業がスタートを切った。
ちなみに、「セイコー」ブランドで知られる服部時計店は明治一四(一八八一)年に創業。明治二八(一八九五)年には時計製造工場として「精工舎」を設立し、掛け時計の製造を開始した。明治三一(一八九八)年には本社を銀座四丁目に移し、交差点角に銀座のシンボルとして親しまれることとなる時計台を設置した。「第二精工舎」は精工舎の懐中時計製造部門を分離独立させて昭和一二(一九三七)年に設立された。
昭和一六(一九四一)年八月、上諏訪町は豊田村、四賀村との合併により「諏訪市」となり、新たな市制がスタートした。しかし、没落する一方の町にみな不安を隠しきれずにいた。山崎は、第二精工舎の本格的な工場を諏訪に持ってきたいと考えはじめていた。
しかし、自ら起業する資金など皆無だった。そこで山崎は、初代諏訪市長となった宮坂伊兵衛ら行政を巻き込んで、第二精工舎にかけ合った。宮坂も山崎の起業を快くバックアップした。町の衰退をくい止めようという思いは同じだったからだ。
東京・亀戸にあった第二精工舎に山崎や宮坂らは足繁く通い、ついに出資を取りつけた。店の二階では狭すぎるということで、山崎は諏訪の市街を物色して、ある古い「蔵」に目をつけた。地元企業の丸中醸造が信州味噌を貯蔵していた。
「ここを改造すれば、工場になるぞ」
昭和一七(一九四二)年五月、資本金三万円で有限会社「大和工業」が発足した。第二精工舎の布施が代表取締役となり、山崎は取締役工場長に納まった。敷地面積約二九〇坪、味噌蔵を改造した七〇坪あまりの味噌臭さが残る工場のなかで、山崎や布施がかき集めた数人の技術者、そして近隣の女性たちも集まり、総勢二二人による時計部品製造の下請け仕事が、本格的に始まった。
なかには失業した生糸女工もいた。生糸を紡いだ繊細な指先を駆使して、彼女たちは慣れない時計の組み立て作業に必死で取り組んだ。山崎は一人ひとりに給料を直接手渡すと、いつも「ご苦労さん」と声をかけた。当時一七歳、元生糸女工だった伊藤寿は回顧する。
「ご苦労さん、また頑張ってくれといって給料袋を手渡してくれる山崎さんの優しさがうれしくて、受け取る手が震えたのを覚えています。本当にありがたいなぁと思いましたよ」
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