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プロジェクトX 挑戦者たち 起死回生の突破口 通天閣 熱き7人/商店主と塔博士の挑戦

プロジェクトX 挑戦者たち 起死回生の突破口 通天閣 熱き7人/商店主と塔博士の挑戦


発行: 日本放送出版協会
シリーズ: プロジェクトX 挑戦者たち
価格:100pt
形式:XMDF形式⇒詳細 
対応端末:パソコン ソニー“Reader”
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解説

 大阪のシンボル、通天閣。戦時中に一度焼失したこの塔を、昭和31年に再建したのは、行政でも企業でもなく、古着屋、写真屋、ウナギ屋など、地元・新世界の商店主たちだった。
 戦後、焼け野原だった大阪・新世界に、闇市が生まれた。集まったのは、裸一貫同然の男たち。意地としたたかさだけで、焼け跡を生き抜いていた。 復員して麻雀屋を始めた知里正雄。父の末吉から「焼失した通天閣を再建したい」と、夢を託された。明治45年に「東洋一のタワー」として建設された通 天閣の再建は、新世界の復興をかけた人々の願いだった。
 末吉が作らせた原図をもとに、7人の商店主が立ち上がった。その挑戦は、素人ならではの大胆なもの。公園を勝手に用地に選び、口八丁で市の許可をとった。設計者には、日本一の大御所・内藤多仲を口説いた。「もし再建できたらうどんで首をつったる」とあざ笑う街の人々を説得し、資金を集めた。
 焼け跡から立ち上がった庶民が、行政、専門家を巻き込み、後に大阪のシンボルとなる一本の塔を建てるまでの、意地と執念のドラマを描く。

目次

一 新世界にぽっかり穴が空いた
二 通天閣再建プロジェクト始動
三 ど素人七人と塔博士

抄録

一 新世界にぽっかり穴が空いた


通天閣は、いまも大阪のシンボル


 商都・大阪。キタやミナミの一大繁華街からさらに南に位置する、通称「新世界」と呼ばれる猥雑さの残る街の真ん中に、「大阪の灯」「お天道様」ともいわれる一本の塔が建っている。
 通天閣。鉄骨むき出しの幾分くたびれたその塔は高さ一〇三メートル、エレベーターで展望台に上れば、大阪の街や遠く六甲の山並みに至るまで、三六〇度パノラマで見渡すことができる。
 現在建っているのは、二代目。初代は明治四五(一九一二)年に建てられたが、昭和一八(一九四三)年の火災によって焼失していた。明治から戦前まで大阪一のにぎわいを誇った娯楽の街、新世界のシンボルとしてずっと親しまれ、大阪人の心に刻まれたランドマークだった。
 戦後、かつては「夢の街」とまでいわれた新世界がどんどん衰退していくさまを目の前にして、そこで家族とともに暮らし、商売をする男たちが「夢よ、もう一度」とばかりに立ち上がった。
「わしらで、もっぺん、通天閣建てたろうやないか」
 明らかに無謀な計画だった。言いだしたのは、街の古着屋、鰻屋、写真館、時計屋、質屋、氷屋、そして麻雀屋の主人たち。知識も金もない“ど素人”の集まりだった。まだ戦後まもなく、みなようやく自分と家族の生活を立て直そうとしていたころに、こともあろうに新しい通天閣を建てようなどといっても、誰も本気にはしなかった。
「そんなん本当にできたら、うどんで首吊ったるわ」
 そう言われて笑われた。しかし、彼ら七人は本気だった。「新世界にかつての活気を取り戻すには、通天閣を再建するしかないんや」とばかり、意地とど根性だけでしゃにむに突き進んでいったナニワの商店主たち。
 数々の困難を乗り越えて、新世界の七人は、ついに昭和三一(一九五六)年、二代目通天閣完成にこぎ着けることになる。東京タワーや名古屋テレビ塔、神戸ポートタワー、京都タワーなど日本を代表するタワーのなかで、通天閣は唯一公金の入っていない、新世界の人たちの出資した株を元に建てられた「庶民の塔」である。まさに庶民の街にふさわしいシンボルとして、いまも存在しつづける。
 これは、通天閣の再建と新世界の復興を願った名もなき人々と、彼らの思いに応えた“塔博士”との、熱き再生のドラマである。


初代通天閣と新世界


 新世界は、かつて大阪で最も“モダン”な街だった。
 明治三六(一九〇三)年、JR天王寺駅に隣接する現在の天王寺公園一帯で、第五回内国勧業博覧会が盛大に催された。明治新政府の殖産興業政策を振興する目的により、全国から集められた工芸品や機械製品など国内物産の展覧会として開催された同博覧会は、明治一〇(一八七七)年に東京・上野公園で第一回が開かれ、明治二八(一八九五)年の第四回から場所を京都に移し、第五回の大阪では会期一五三日間、来場者数は約四三五万人を数え、過去最大規模だったという。
 来場者の目と足を止めたのが、博覧会と同時につくられた本格的遊技施設「ルナパーク」だった。メリーゴーラウンド(当時は「快回機」と呼ばれていたという)や空中観覧車など、ハイカラなアトラクションが登場し、当時の人々を大いに驚かせた。
 明治四四(一九一一)年、博覧会の跡地約四万坪が、同年七月に発足した「大阪土地建物株式会社」に貸与され、同社は大阪市と共同で跡地の再開発に着手した。美しい天王寺公園の美観を活かしながら、この一帯を市民のための“理想的共同娯楽園”にしようというのが、その構想だった。
 お手本になったのは、世界で初めてジェットコースターが設置されたことでも知られる、ニューヨーク郊外の遊園地コニーアイランド。そして、新しい場所のランドマークとして、パリのエッフェル塔を模した高い「塔」をつくることが決まった。
 明治四五(一九一二)年七月三日、総工費九万七〇〇〇円あまりをかけて、高さ七五メートルの巨大な塔「通天閣」が完成した。
 ちなみに、通天閣という名前は、大阪土地建物社長で大阪商業会議所会頭でもあった土居通夫の「通」の字を採って、天に通ずる高い楼閣ということで名づけられたというのが長く通説であったが、二代目通天閣完成三〇周年に当たる昭和六〇(一九八五)年に、明治期の高名な儒学者・藤沢南岳の遺族から指摘を受け、南岳が大阪土地建物の依頼を受けて命名したのではないかという説がいまでは有力となっている。
 エッフェル塔を模しただけでなく、左右に約七二メートルもあるアーチ状の脚の部分は「凱旋門」をイメージしていた。いわば凱旋門にエッフェル塔が乗っているような、よくよく見ると摩訶不思議な建物だった。アーチ部分の下には、新生ルナパークへ入園する道が敷かれており、見上げると天井には花園を舞う巨大なクジャクの絵が描かれていた(当時「日本の模倣文化の極致」と揶揄する指摘があったという)。
 アーチの左右にある階段を上ると、地上一五メートルほどのところには広さ二〇〇坪の「空中庭園」がつくられており、そこから当時は珍しかったエレベーターに乗って展望台に向かう。東洋一といわれた高塔からの眺めの素晴らしさは、当時の文献にはこう記してある。
《塔上の展望に至っては恐らく何者も之に比儔(ひちゅう)すべきものなからん》
 ルナパークと通天閣という目玉施設に加えて、芝居小屋や活動写真館、飲食店や売店も数多く建てられたまったく新しい娯楽の街は、土居通夫によって「新世界」と命名された。ドボルザークの『新世界交響曲』を思い起こさせる、モダンなネーミングだった。


焼け落ちた通天閣、供出


 ♪ダイヤモンド買おて、ダイヤモンド高い、高いは通天閣、通天閣こわい、こわいは幽霊……。
 いまも大阪に伝わる古い童歌の一節だ。新世界を舞台にした映画『王手』(平成三〈一九九一〉年、阪本順治監督)のなかでも、ヒロインの加奈子がこの歌を口ずさむシーンが出てくる。
 通天閣の経営は、昭和の初めに大阪土地建物から吉本興業に移った。昭和一七(一九四二)年の統計によれば、新世界には、映画館をはじめとする興行館一六軒、遊技場と麻雀屋四軒、撞球(ビリヤード)場三四軒、射的場三二軒。飲食店は大小合わせて三〇〇以上、そしてホテルや旅館も一九を数えた。近隣には市立天王寺動物園や飛田遊郭もあり、明治から昭和にかけて、関西圏を代表する一大歓楽街でありつづけた。
 そんな新世界で、通天閣に集まる観光客を相手に写真を撮る“笑顔の男”がいた。曽和(そわ)繁雄、当時三七歳。和歌山県に生まれ、小学校卒業後、様々な職業の丁稚奉公を経験したのち、写真館に入門して撮影技術を身につけた。苦労の末、昭和元(一九二六)年にこの新世界で「ニコニコ写真館」を開業。昭和一四年に同じ和歌山県出身の妻・操と所帯を持った。夜九時には店を閉め、通天閣の下のうどん屋に立ち寄った。曽和が決まって頼んだのは、きつねうどん。甘い油揚げが大の好物だった。曽和にとっては毎日が満ちたりた日々だった。
 ところが、昭和一六(一九四一)年に勃発した太平洋戦争が、新世界、そして初代通天閣の運命を一変させることになる。
 昭和一八(一九四三)年一月一六日、通天閣の脚下近くにあった映画館「大橋座」から上がった火の手が通天閣にも延焼した。鉄骨でできた四本の脚は真っ赤に燃え、鎮火後も消防隊が一時間にわたってホースで冷やさないと、近づけない有り様だったという。
 焼け落ちた通天閣の運命は悲しいものだった。このまま放置しては危険だという理由もあったが、時は戦争の真っただ中、全国に広がっていた軍への「金属献納運動」の格好の標的となったのだった。翌二月にはさっそく解体作業が開始され、三〇〇トンものくず鉄となった通天閣は“お国のために”供出され、跡形もなくなった。新世界で生きる人たちはみな、なす術もなく無力感に打ちひしがれた。
 まんじゅう屋の中山富貴子(当時一七歳、毛受富貴子)は、焼け落ちた通天閣を見たときの印象を、こう語る。
「やぁ、なくなってしもた。あの通天閣がなくなったいうような、なんか心に穴が空いたような、空虚な感じになりましたね」
 昭和二〇(一九四五)年、終戦。大阪は八度にわたる大空襲によって、新世界をはじめ、いたるところ焼け野原になっていた。焼け出された人々は路頭に迷い、何とか生きる術を探し出そうと、もがいていた。
 そんな焼け野原のなか、レンズや三脚を拾い集める男がいた。あのニコニコ写真館の曽和繁雄だった。店や写真機材の大半を失い、客を呼ぶ通天閣も消えた。曽和は、店員の山本マサエに弱音を吐いた。このときの曽和の様子を山本が語る。
「弱ったな、弱ったなていう話ばかりでね。通天閣をこしらえな、どうもならんということでね。一生懸命でしたわ」
 それでも曽和は、バラックで商売を再開した。みな必死だった。
 飲食店跡にはいくつものバラックが建ち、闇市ができ上がっていった。戦火を逃れて各地に疎開していた人たちや、戦後の混乱で家や職を失い、流れ着いた人たちが新世界に集まってきた。戦後の新世界は、かつてのこの街の隆盛をよく知る者と、まったく知らない新参者同士が共存する街になっていった。


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