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著者プロフィール
リチャード・F・バートン(Richard Francis Burton)
(1821〜1890)
英国生まれ。早くから語学的天分に恵まれ、修めた外国語は35カ国語にものぼる。インドや東洋諸国をはじめとして世界中を遊歴し、さまざまな旅行記を書いた。1890年トリエストで永眠。
(1821〜1890)
英国生まれ。早くから語学的天分に恵まれ、修めた外国語は35カ国語にものぼる。インドや東洋諸国をはじめとして世界中を遊歴し、さまざまな旅行記を書いた。1890年トリエストで永眠。
解説
長い夜話もついに千一夜を迎え、シャーラザッドは王妃に収まり大団円となる。美しい淫婦と世間知らずの若者の情痴の世界を描いた「カマル・アル・ザマンと宝石商の妻」、悪妻にいじめられ「蒸発」した亭主が魔法の指輪によって、ついにサルタンにまで出世する「靴直しのマアルフとその妻ファティマー」の波乱に満ちた架空談など、読み応えのある4編の物語。
目次
ホラサンのアブ・アル・ハサン
カマル・アル・ザマンと宝石商の妻
アブズラー・ビン・ファジルとその兄弟
靴直しのマアルフとその女房ファティマー
結び
訳者あとがき
カマル・アル・ザマンと宝石商の妻
アブズラー・ビン・ファジルとその兄弟
靴直しのマアルフとその女房ファティマー
結び
訳者あとがき
抄録
むかしむかし、神さまの守護したもうカイロの町に、古靴の修理をしては口すぎをしている、ひとりの靴直しが住んでおりました。その名をマアルフといい、ファティマーと呼ぶ女房がありましたが、世間ではこの女に〈糞女《くそおんな》〉というあだ名をつけていました。それと申しますのは、この女は淫奔《いんぽん》な下司《げす》女で、恥も外聞もあらばこそ、ただもう、わるさばかりしでかしていたからでございます。
この女は亭主を尻にしいて、毎日なん千べんとなく毒づいたり、悪態をついたりするならいだったので、亭主のほうでは相手の悪だくみやら邪険な仕打ちをひどくこわがって、ただもうおどおどしていました。というのも、この男は根は物わかりのよい、世間体を気にする性質《たち》だったのですが、いかにせん暮らしむきがひどく悪かったからなのです。
どっさりもうけがあると、亭主はそのお金を女房につぎこみましたが、稼ぎが少ないと、女房は夜になって亭主の体に腹いせをするので、亭主は夜どおしまんじりともできず、女房の台帳みたいに、まっ暗な気分になりました。
この女は、ちょうど詩人もうたっているとおりの女でございました。
そもいく夜 妻と寝《いね》しは?
ありとある 不幸に満ちし
うえなくも 悲しきさまで――。
かにかくも 悩み深くば、
初床の 契りのおりに
盃に 毒をばつぎて
その命 奪いしものを。
そのほか数々の憂きめをみましたが、ある日こんなことがありました。女房が亭主にむかって言うのには、「ねえ、マアルフ、今晩はね、蜂蜜をかけた焼き素麺《そうめん》を買ってきてちょうだい」
「全能の神さまの思召しで銭《ぜに》さえ手にはいりゃ、買ってきてあげるとも。いまはびた一文もないけど、主がなんとかうまくつごうしてくださるだろうよ」すると、女房は言いました。
……シャーラザッドは夜がしらんできたのを知って、許された物語をやめた。
さて第九百九十夜になると
シャーラザッドはふたたび語りはじめた。おお、恵み深い王さま、靴直しのマアルフが女房にむかって、「アラーの思召しで銭さえ手にはいりゃ、買ってきてあげるとも。いまはびた一文もないけれど、主がなんとかうまくつごうしてくださろうよ!」と言えば、女房は答えました。「そんなことわたしの知ったことかね。神さまがおまえさんを助けてくださろうが、くださるまいが、とにかく焼き素麺を持ってきておくれでないと承知しないよ。手ぶらで帰ったりしたら、今夜はいつものように、目もあてられないようにしてあげるから。夫婦《めおと》になって、おまえさんがわたしのものになったあの晩のようにね」
「アラーは慈悲深い神さまだよ!」亭主はそう言っておもてに出ると、体じゅうから悲しみをまき散らしながら、「おお、主よ、どうか焼き素麺《クナファー》を買う銭を恵んで、今夜あの意地の悪い女房にわるさをされないようにしてくださいませ!」と祈って、礼拝をしたあと、店を開きました。
それから、ま昼ごろまで店に坐っていましたが、だれひとり仕事を頼みにくる者もないありさまなので、女房の仕返しがますますこわくなってきました。やがてのこと、立ちあがって店をしめると、パンを買うお金すらないのに、焼き素麺をどうして工面したらよかろうかと、途方にくれながらおもてへ出ました。ほどなく焼き素麺屋の前までやってきましたが、マアルフは目にいっぱい涙をためて、気がふれたようなかっこうで、店さきにたたずみました。
菓子屋は相手の姿をちらっと眺めて、声をかけました。「もしマアルフの親方、なんで泣いていなさるのじゃ? どうしたわけか、子細を聞かせてくだされ」そこで、マアルフは一部始終を語ってきかせました。
「うちの女房ときたら、じゃじゃ馬の山の神でな、おれに焼き素麺を買ってきてくれと言ってきかないんだ。だけど、昼さがりまで店に坐っていたけど、ろくろくパン代にもありつけやしないんだ。それでおれは女房がこわいのさ」
すると、菓子屋は笑って申しました。「心配しなさるな。いったいなん百匁《もんめ》くらいご入用かな?」「六百匁がとこ」
マアルフの返事に、主人は焼き素麺を六百匁計って、さらに言いました。「透明バターは店にあるけど、蜂蜜はあいにく品切れなんでね。たれ蜜ならありますぜ。こいつときたら、蜂蜜よりもおいしいのさ。たれ蜜をつけたからって、悪くはなかろうじゃないかね?」
マアルフは、払いを待ってもらうはずだったので、気まりが悪くて、いやとは言えません。「それじゃ、たれ蜜をつけてもらいましょう」と答えました。そこで、菓子屋は素麺を油であげたうえ、王侯の前に出しても恥ずかしくないほどたっぷり、これにたれ蜜を浸しました。
それから、「パンにチーズもご入用かな?」ときけば、「ええ」と言うマアルフの返事に、菓子屋は半ディルハムのパンを四片《きれ》に、一ディルハムするチーズを一個渡しました。焼き素麺のほうは十ヌスフの値段でした。
やがて菓子屋が申しますには、「ようござんすかい、マアルフの旦那、つごう十五ヌスフご用立てしましたよ。さあさ、お内儀《かみ》さんのところへいって、ひとつ陽気におやんなさい。風呂銭もここにあるから、お持ちなさるがいい。一日でも、二日でも、いやさ、三日でも、とにかくアラーの思召しで日々の糧を授かるまで、ご融通しときましょうで。お内儀さんを困らせんようにな。てまえのほうは余分のお金《あし》ができるまで待ってあげますから」
マアルフは焼き素麺とパンとチーズを手にして、安堵の胸をなでおろしながら、いとま乞いをすると、道々菓子屋に天の祝福を祈りました。「おお、わが主《しゅ》よ! 汝の全き姿をほめそやさん! あなたさまはなんとまあいつくしみ深いお方でしょう!」
家に帰ると、女房がさっそくたずねました。「焼き素麺を買ってきてくれたの?」
「うん」亭主はそう答えて、焼き素麺を女房の前に出しました。女房はじっとこれを見つめていましたが、庶糖蜜でまぶしてあるのに気がつくと、「蜂蜜をつけて買ってくるように言ったじゃないの? それだのに、わたしの注文どおりにしないで、甘庶糖でまぶさせたの?」と申しました。
亭主のマアルフが「これは、つけで買ってきたのさ」と弁解しても、女房はききいれません。「ばかなことをお言いじゃないよ。わたしゃ蜂蜜がついてなきゃ、焼き素麺なんか食いたかないよ」
女房はすっかり腹を立てて、焼き素麺を亭主の顔へ投げつけると、「出てゆけ、この妓夫太郎《ぎゆうたろう》め、ほかのやつをもっといで!」とどなりました。それから、いやというほど亭主のほっぺたをなぐりつけて、歯を一本へし折ってしまいました。血潮が胸さきへ流れ落ちると、さすがの亭主もかんにん袋の緒を切って、相手の頭に、ほんのちょいと、一撃をくらわせたのでございます。すると、女房は亭主の鬚をひっつかんで、大声でわめき立てました。「助けてえっ! 回教徒方!」
……「靴直しのマアルフとその女房ファティマー」より
この女は亭主を尻にしいて、毎日なん千べんとなく毒づいたり、悪態をついたりするならいだったので、亭主のほうでは相手の悪だくみやら邪険な仕打ちをひどくこわがって、ただもうおどおどしていました。というのも、この男は根は物わかりのよい、世間体を気にする性質《たち》だったのですが、いかにせん暮らしむきがひどく悪かったからなのです。
どっさりもうけがあると、亭主はそのお金を女房につぎこみましたが、稼ぎが少ないと、女房は夜になって亭主の体に腹いせをするので、亭主は夜どおしまんじりともできず、女房の台帳みたいに、まっ暗な気分になりました。
この女は、ちょうど詩人もうたっているとおりの女でございました。
そもいく夜 妻と寝《いね》しは?
ありとある 不幸に満ちし
うえなくも 悲しきさまで――。
かにかくも 悩み深くば、
初床の 契りのおりに
盃に 毒をばつぎて
その命 奪いしものを。
そのほか数々の憂きめをみましたが、ある日こんなことがありました。女房が亭主にむかって言うのには、「ねえ、マアルフ、今晩はね、蜂蜜をかけた焼き素麺《そうめん》を買ってきてちょうだい」
「全能の神さまの思召しで銭《ぜに》さえ手にはいりゃ、買ってきてあげるとも。いまはびた一文もないけど、主がなんとかうまくつごうしてくださるだろうよ」すると、女房は言いました。
……シャーラザッドは夜がしらんできたのを知って、許された物語をやめた。
さて第九百九十夜になると
シャーラザッドはふたたび語りはじめた。おお、恵み深い王さま、靴直しのマアルフが女房にむかって、「アラーの思召しで銭さえ手にはいりゃ、買ってきてあげるとも。いまはびた一文もないけれど、主がなんとかうまくつごうしてくださろうよ!」と言えば、女房は答えました。「そんなことわたしの知ったことかね。神さまがおまえさんを助けてくださろうが、くださるまいが、とにかく焼き素麺を持ってきておくれでないと承知しないよ。手ぶらで帰ったりしたら、今夜はいつものように、目もあてられないようにしてあげるから。夫婦《めおと》になって、おまえさんがわたしのものになったあの晩のようにね」
「アラーは慈悲深い神さまだよ!」亭主はそう言っておもてに出ると、体じゅうから悲しみをまき散らしながら、「おお、主よ、どうか焼き素麺《クナファー》を買う銭を恵んで、今夜あの意地の悪い女房にわるさをされないようにしてくださいませ!」と祈って、礼拝をしたあと、店を開きました。
それから、ま昼ごろまで店に坐っていましたが、だれひとり仕事を頼みにくる者もないありさまなので、女房の仕返しがますますこわくなってきました。やがてのこと、立ちあがって店をしめると、パンを買うお金すらないのに、焼き素麺をどうして工面したらよかろうかと、途方にくれながらおもてへ出ました。ほどなく焼き素麺屋の前までやってきましたが、マアルフは目にいっぱい涙をためて、気がふれたようなかっこうで、店さきにたたずみました。
菓子屋は相手の姿をちらっと眺めて、声をかけました。「もしマアルフの親方、なんで泣いていなさるのじゃ? どうしたわけか、子細を聞かせてくだされ」そこで、マアルフは一部始終を語ってきかせました。
「うちの女房ときたら、じゃじゃ馬の山の神でな、おれに焼き素麺を買ってきてくれと言ってきかないんだ。だけど、昼さがりまで店に坐っていたけど、ろくろくパン代にもありつけやしないんだ。それでおれは女房がこわいのさ」
すると、菓子屋は笑って申しました。「心配しなさるな。いったいなん百匁《もんめ》くらいご入用かな?」「六百匁がとこ」
マアルフの返事に、主人は焼き素麺を六百匁計って、さらに言いました。「透明バターは店にあるけど、蜂蜜はあいにく品切れなんでね。たれ蜜ならありますぜ。こいつときたら、蜂蜜よりもおいしいのさ。たれ蜜をつけたからって、悪くはなかろうじゃないかね?」
マアルフは、払いを待ってもらうはずだったので、気まりが悪くて、いやとは言えません。「それじゃ、たれ蜜をつけてもらいましょう」と答えました。そこで、菓子屋は素麺を油であげたうえ、王侯の前に出しても恥ずかしくないほどたっぷり、これにたれ蜜を浸しました。
それから、「パンにチーズもご入用かな?」ときけば、「ええ」と言うマアルフの返事に、菓子屋は半ディルハムのパンを四片《きれ》に、一ディルハムするチーズを一個渡しました。焼き素麺のほうは十ヌスフの値段でした。
やがて菓子屋が申しますには、「ようござんすかい、マアルフの旦那、つごう十五ヌスフご用立てしましたよ。さあさ、お内儀《かみ》さんのところへいって、ひとつ陽気におやんなさい。風呂銭もここにあるから、お持ちなさるがいい。一日でも、二日でも、いやさ、三日でも、とにかくアラーの思召しで日々の糧を授かるまで、ご融通しときましょうで。お内儀さんを困らせんようにな。てまえのほうは余分のお金《あし》ができるまで待ってあげますから」
マアルフは焼き素麺とパンとチーズを手にして、安堵の胸をなでおろしながら、いとま乞いをすると、道々菓子屋に天の祝福を祈りました。「おお、わが主《しゅ》よ! 汝の全き姿をほめそやさん! あなたさまはなんとまあいつくしみ深いお方でしょう!」
家に帰ると、女房がさっそくたずねました。「焼き素麺を買ってきてくれたの?」
「うん」亭主はそう答えて、焼き素麺を女房の前に出しました。女房はじっとこれを見つめていましたが、庶糖蜜でまぶしてあるのに気がつくと、「蜂蜜をつけて買ってくるように言ったじゃないの? それだのに、わたしの注文どおりにしないで、甘庶糖でまぶさせたの?」と申しました。
亭主のマアルフが「これは、つけで買ってきたのさ」と弁解しても、女房はききいれません。「ばかなことをお言いじゃないよ。わたしゃ蜂蜜がついてなきゃ、焼き素麺なんか食いたかないよ」
女房はすっかり腹を立てて、焼き素麺を亭主の顔へ投げつけると、「出てゆけ、この妓夫太郎《ぎゆうたろう》め、ほかのやつをもっといで!」とどなりました。それから、いやというほど亭主のほっぺたをなぐりつけて、歯を一本へし折ってしまいました。血潮が胸さきへ流れ落ちると、さすがの亭主もかんにん袋の緒を切って、相手の頭に、ほんのちょいと、一撃をくらわせたのでございます。すると、女房は亭主の鬚をひっつかんで、大声でわめき立てました。「助けてえっ! 回教徒方!」
……「靴直しのマアルフとその女房ファティマー」より
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