和書>小説・ノンフィクション>文芸>日本文学>名作小説
著者プロフィール
有島 武郎(ありしま たけお)
一八七八年、東京都小石川に大蔵省官僚の長男として生まれる。小説家。画家の有島生馬(いくま)、小説家の里見とんの実兄。学習院高等科中退、札幌農学校に入学。三十八歳の時、実父と妻の死を契機に本格的な文筆活動に入り、不朽の傑作『或る女』『カインの末裔』などを次々と発表。白樺派文学興隆期の一翼を担った。一九二三年、婦人記者波多野秋子と共に軽井沢の別荘で自殺。三男を残し四十五年の生涯を閉じた。
一八七八年、東京都小石川に大蔵省官僚の長男として生まれる。小説家。画家の有島生馬(いくま)、小説家の里見とんの実兄。学習院高等科中退、札幌農学校に入学。三十八歳の時、実父と妻の死を契機に本格的な文筆活動に入り、不朽の傑作『或る女』『カインの末裔』などを次々と発表。白樺派文学興隆期の一翼を担った。一九二三年、婦人記者波多野秋子と共に軽井沢の別荘で自殺。三男を残し四十五年の生涯を閉じた。
解説
近代日本文学中大正期の最高傑作。国木田独歩の恋人をモデルとしている点が問題になった。恋愛、家族制度、女の経済的独立等の問題をめぐって、封建的なものの強く残存している社会に自我の開放を求める女性の悲劇的な運命を描き、重厚なリアリズムの力がみなぎっている。
目次
・或る女(下)
抄録
「もう私に愛想が尽きたら尽きたとはっきり言ってください、ね。あなたは確かに冷淡におなりね。私は自分が憎うござんす、自分に愛想を尽かしています。さあ言ってください、……今……この場で、はっきり……でも死ねとおっしゃい、殺すとおっしゃい。私は喜んで……私はどんなにうれしいかしれないのに。……ようござんすわ、なんでも私本当が知りたいんですから。さ、言ってください。私どんなきつい言葉でも覚悟していますから。悪びれなんかしはしませんから……あなたは本当にひどい……」
葉子はそのまま倉地の胸に顔をあてた。そして始めのうちはしめやかにしめやかに泣いていたが、急に激しいヒステリーふうなすすり泣きに変わって、汚(きた)ないものにでも触れていたように倉地の熱気の強い胸もとから飛びしざると、寝床の上にがばと突っ伏して激しく声を立てて泣きだした。
このとっさの激しい脅威に、近ごろそういう動作には慣れていた倉地だったけれども、あわてて葉子に近づいてその肩に手をかけた。葉子はおびえるようにその手から飛び退(の)いた。そこには獣に見るような野性のままの取り乱し方が美しい衣裳にまとわれて演ぜられた。葉子の歯も爪(つめ)も尖(とが)って見えた。体は激しい痙攣(けいれん)に襲われたように痛ましく震えおののいていた。憤怒と恐怖と嫌悪とがもつれ合いいがみ合ってのた打ち廻るようだった。葉子は自分の五体が青空遠くかきさらわれて行くのを懸命に喰い止めるために布団でも畳でも爪の立ち歯の立つものにしがみついた。倉地は何よりもその激しい泣き声が隣近所の耳にはいるのを恥じるように背に手をやってなだめようとしてみたけれども、そのたびごとに葉子はさらに泣き募って遁(のが)れようとばかりあせった。
「何を思い違いをしとる、これ」
倉地は喉笛(のどぶえ)を開けっ放した低い声で葉子の耳もとにこう言ってみたが、葉子は理不尽にも激しく頭を振るばかりだった。倉地は決心したように力任せにあらがう葉子を抱きすくめて、その口に手をあてた。
「ええ、殺すなら殺してください……くださいとも」
という狂気じみた声をしっと制しながら、その耳もとにささやこうとすると、葉子は我れながら夢中であてがった倉地の手を骨も摧(くだ)けよと噛(か)んだ。
葉子はそのまま倉地の胸に顔をあてた。そして始めのうちはしめやかにしめやかに泣いていたが、急に激しいヒステリーふうなすすり泣きに変わって、汚(きた)ないものにでも触れていたように倉地の熱気の強い胸もとから飛びしざると、寝床の上にがばと突っ伏して激しく声を立てて泣きだした。
このとっさの激しい脅威に、近ごろそういう動作には慣れていた倉地だったけれども、あわてて葉子に近づいてその肩に手をかけた。葉子はおびえるようにその手から飛び退(の)いた。そこには獣に見るような野性のままの取り乱し方が美しい衣裳にまとわれて演ぜられた。葉子の歯も爪(つめ)も尖(とが)って見えた。体は激しい痙攣(けいれん)に襲われたように痛ましく震えおののいていた。憤怒と恐怖と嫌悪とがもつれ合いいがみ合ってのた打ち廻るようだった。葉子は自分の五体が青空遠くかきさらわれて行くのを懸命に喰い止めるために布団でも畳でも爪の立ち歯の立つものにしがみついた。倉地は何よりもその激しい泣き声が隣近所の耳にはいるのを恥じるように背に手をやってなだめようとしてみたけれども、そのたびごとに葉子はさらに泣き募って遁(のが)れようとばかりあせった。
「何を思い違いをしとる、これ」
倉地は喉笛(のどぶえ)を開けっ放した低い声で葉子の耳もとにこう言ってみたが、葉子は理不尽にも激しく頭を振るばかりだった。倉地は決心したように力任せにあらがう葉子を抱きすくめて、その口に手をあてた。
「ええ、殺すなら殺してください……くださいとも」
という狂気じみた声をしっと制しながら、その耳もとにささやこうとすると、葉子は我れながら夢中であてがった倉地の手を骨も摧(くだ)けよと噛(か)んだ。
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