マイリストに追加

和書>小説・ノンフィクションノンフィクションルポ・ドキュメント

プロジェクトX 挑戦者たち 勝者たちの羅針盤 執念のテレビ 技術者魂30年の闘い

プロジェクトX 挑戦者たち 勝者たちの羅針盤 執念のテレビ 技術者魂30年の闘い


発行: 日本放送出版協会
シリーズ: プロジェクトX 挑戦者たち
価格:100pt
形式:XMDF形式⇒詳細 
対応端末:パソコン ソニー“Reader”
みんなの評価 未評価
◆レビューを書く

¥0サンプル
XMDFのファイルをご覧になるにはブンコビューア最新版(無料)をインストールしてください。

「書籍ファイルが壊れています」と表示される場合は、ブンコビューアを最新版にアップデートしてください。
購入する


解説

 1953年(昭和28年)2月1日、日本初のテレビ本放送開始。その実現までには多くの技術者達の知られざるドラマがあった。
 本放送開始をさかのぼること約30年前の1926(大正15)年12月、世界を驚嘆させる実験が浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)で行われた。手書きの「イ」の字をブラウン管に映し出すというテレビ実験。成し遂げたのは若き教授、高柳健次郎(1899〜1990)。全国放送という壮大な夢を持っていた。やがて高柳は、NHKに請われ、東京砧の放送技術研究所で、テレビ放送実現に向けて開発に邁進する。しかしその矢先、戦争が勃発。テレビ放送開発は中止、プロジェクトチームも解散を余儀なくされる。高柳は軍の命令でレーダー開発に従事することになった。
 そして終戦。「研究を再開できる」と喜ぶ高柳の元に、GHQから衝撃の報せが届く。「テレビ研究は電波兵器につながる。禁止だ」さらに高柳自身、戦争協力者だとして職を追われてしまう。日本のテレビ放送開始は遠のいたかに思えた。
 しかし高柳は諦めなかった。企業の壁を越えプロジェクト結成を呼びかけ、再び開発に乗り出すのだった…。
 テレビ本放送開始50周年記念番組として、テレビ誕生に関わった技術者達の物語を壮大なスケールで描く。

目次

一 それは「イ」の字から始まった
二 テレビ実用化へのあくなき挑戦
三 企業横断プロジェクトが日本のテレビ時代を拓いた

抄録

一 それは「イ」の字から始まった


人々の生活を一変させたテレビ


 半世紀前の一九五三(昭和二八)年二月一日、日本のテレビ放送が産声を上げた。
 いまや一家に一台から、一人に一台というのも珍しくなくなったテレビだが、われわれの生活に大きな革命を起こした製品であった。
 家にいながらにして、どんなに遠い世界の出来事も瞬時に、リアルタイムで見ることができるテレビ。新聞やラジオといった既存のメディアでは表現し得なかった映像のダイナミズムは、圧倒的なインパクトをもって迎えられた。
 テレビが発信する様々な情報は世界の国々の距離を近づけ、人々の生活を変え、情報に対する価値観をも変えてしまったといって過言ではない。
 かつては“電気紙芝居”と形容されたテレビ。「なぜあの箱に動く絵が映るのか」「中に人が入っているんじゃないか」と大真面目に考える人さえいた。それほどテレビの技術は、世界中の研究者が英知を注ぎ込んだ賜物ともいえる、高度な発明であった。
 そんなテレビ技術を実用化させた立役者の一人として、“テレビの父”と呼ばれた日本人がいた。高柳健次郎。戦前からテレビの実用化のために、惜しみない努力を続けてきた研究者である。高柳の研究は戦争によって一度は頓挫したかに見えたが、戦後、彼の教え子を中心とする若手研究者の力も加わって、夢のプロジェクトは見事に日の目を見た。
 華々しく始まったテレビ放送。これは、その陰でまさに不屈の精神でテレビ放送システムを構築した一人の研究者と、それを支えた技術者たちの、執念の物語である。


高柳健次郎という男


「JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります」
 一九二五(大正一四)年三月二二日、日本で初めてのラジオ放送が始まった。当時は“電気仕掛けの木の箱”から人間の声が聞こえてくること自体、不思議なことだった。しかしそのうちに、人々はラジオから聞こえてくるニュースに聞き入り、ドラマや演芸、歌にひとときの楽しみを覚えた。翌一九二六(昭和元)年八月、社団法人『日本放送協会』(注・「NHK」という略称は一九四五〈昭和二〇〉年一二月から正式に認証。本稿では史実に基づき名称を区別した)が設立され、東京・大阪・名古屋だけだったラジオ放送局を、全国に設置する計画がスタートした。ちなみに当時の聴取加入者は三三万人余り、聴取料は全国一律で月額一円だった。
 ラジオすら珍しかったこのころ、すでにテレビの研究に着手し、世界的にも注目された一人の日本人がいた。浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)の助教授・高柳健次郎(当時二六歳)だった。
 高柳は一八九九(明治三二)年一月二〇日、静岡県浜名郡和田村(現在の浜松市安新町)で生まれた。父の高柳太作は、農業、醸造業、銭湯などいろいろな職業を転々としたが、気のいい男だった。母の高柳みつは、長男が早逝したため、高年になってようやく生まれた次男の健次郎を特に可愛がった。
 七歳で和田尋常小学校に入学した高柳は、いわゆる神童とはほど遠い子どもだった。痩せっぽちで色白の虚弱体質、風邪をひいては学校も休みがちだった。成績も甲乙丙丁の丙と丁ばかりであった。しかし、そんな高柳少年にも、一つだけ幼年期から強い好奇心を抱いているものがあった。それは機械だった。まず故郷の天竜川鉄橋を走る蒸気機関車に心ときめかせ、そして四歳のときにライト兄弟が世界で初めて飛行機の実験に成功したことも、高柳少年の興味と好奇心をかき立てた。
 尋常小学校を卒業し高等小学校に進んだ高柳だったが、相変わらず勉強よりは模型づくりに熱中するような少年で、勉強に自信が持てずにいた。しかし、この高等小学校で出会った一人の恩師によって、運命が変わっていく。
 渡瀬晴吉という若い教師は、高柳に何かを見出したのか、とかく目をかけた。そしてわざと「これはお前には解けないだろう」と言って算術の問題を出す。高柳はそんな言葉が悔しくて、一週間も二週間もかけて自力で解いて持っていく。すると渡瀬は高柳を誉め、より難しい問題を出す。そしてまた何週間もかけて解いて持っていくと、誉める……。そんなやりとりをわざわざ高柳だけのために続けてくれた。高柳は自伝でこう回顧している。
《自分のようなぼんやりした愚鈍な者でも、懸命に考えればわかるのだなということで、すっかり自分の頭に自信ができてきた》(『テレビ事始』)
 恩師・渡瀬との出会いによって、「どんなに難しい問題でも、諦めずに懸命に考え、こつこつと努力していけばわかるようになる」ということを知り、学ぶ喜びを知った。それからは、成績はみるみるトップクラスになっていった。
「どんな落ちこぼれでも、考えつづければきっと答えは出る」――この高柳の信念は、まごうかたなく自身の体験から発している。
 高柳は、恩師に憧れて教員の道に進むことを決め、浜松準教員養成所をトップで卒業し、静岡師範学校に進んだ。同師範での四年間で数学や理科の専門教育を受けた高柳は、物理学の基礎理論への興味が膨らみ、一九一八(大正七)年、東京高等工業学校(現・東京工業大学)に入学する。
 東大をはじめとする帝国大学とは違い、東京高工はすでに確立している理論を応用して直接人間の生活に役立つような機械製品をつくり出す勉強が主だった。高柳は、やりたかった基礎理論が十分に学べない環境に身を投じてしまったことで、最初は大いに戸惑った。しかし、同校電気科長で、のちに東京工業大学初代学長となる中村幸之助教授の「国家のため、社会のために役に立つ製品を生み出してほしい」という訓話に心を動かされ、一念発起した。
「理論物理学者になるよりも、直接社会の役に立つ発明品を生み出そう」


「テレビこそ、一生を賭けるテーマだ」


 様々な経験と試行錯誤、そして人との出会いの中で、高柳の歩むべき道は決まった。
 一九二一(大正一〇)年、東京高工卒業後、高柳は神奈川県立工業高校に就職。教職のかたわら、研究者としてのテーマを見つける日々を送った。
 海外の科学雑誌をいくつも取り寄せ、むさぼるように読んだ高柳だが、英語のものだけでなく、フランス語やドイツ語の雑誌も読みたいと、寸暇を惜しんで語学学校にも通った。
 前年の一九二〇(大正九)年にアメリカでラジオ放送が始まり、高柳は初めて「ブロードキャスト=放送」という概念を知った。近いうちに日本でも登場するだろうと思い、この年初めて渡米して見聞を広めた。しかし所詮ラジオは無線機などの延長線上にあり、そのままの形で次世代に大きく発展するものとは思えなかった。むしろ「ポスト・ラジオ」とはどういうものなのか――高柳の興味はすでに先を行っていた。
 一九二三(大正一二)年、高柳二四歳のときだった。横浜の洋書店に入って、いつものように海外の雑誌を立ち読みしていると、あるフランスの雑誌の一ページに釘付けになった。
「未来のテレビジョン」という記事――それは、ラジオから音だけでなく、人間の姿までもが映像で送られてくるという空想図だった。
「テレ(遠く)ビジョン(見る)」
 遠く離れた場所の風景をリアルタイムで見ることができるとするならば、これはポスト・ラジオになり得る――高柳には研究者として特別な思いが湧き上がった。
 高柳の脳裏に、ある光景が浮かんだ。家の中で家族みんなが、テレビを見ている。遠く離れた地方でも、歌舞伎座で演じられている人気役者の演目を楽しんでいる……。
 歌舞伎観賞が趣味とはいえ、地方都市・浜松出身の高柳にとって、東京の歌舞伎座は遠い存在だった。全国どこにいても、家にいながらにして歌舞伎が見られるとすれば、何と素晴らしいことだろうと思った。
「これだ! テレビこそ一生を賭ける研究テーマだ!」
 高柳の、研究者としての「夢」がそのとき、決まった。
 時を合わせるかのように、一九二四(大正一三)年、故郷に浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)が新設。高柳は同校に助教授として迎えられ、正式にテレビの研究を開始することになった。


*この続きは製品版でお楽しみください。

本の情報

この本を読んだ人は、こんな本も読んでいます

形式

【XMDF形式】

XMDFデータをご覧いただくためには専用のブラウザソフト・ブンコビューア最新版(無料)が必要になります。ブンコビューアは【ここ】から無料でダウンロードできます。
詳しくはXMDF形式の詳細説明をご覧下さい。

対応端末欄に「ソニー“Reader”」と表示されている作品については、eBook Transfer for Readerで“Reader”にファイルを転送する事で閲覧できます。
海外版の“Reader”は対応しておりませんので予めご了承くださいませ。