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著者プロフィール
滝口 康彦(たきぐち やすひこ)
(1929〜2004)
佐世保市生まれ。炭鉱で働きながらラジオドラマの台本や小説を発表。1957年から、作家の道へ。1958年にサンデー毎日大衆文芸賞を受賞した「異聞浪人記」が『切腹』(1962)、「拝領妻始末」が『上意討ち−拝領妻始末−』(1967)として、映画化される。「高柳父子」「かげろう記」「霧の底から」「仲秋十五日」「日向延岡のぼり猿」「主家滅ぶべし」で計6回、直木賞候補となる。
(1929〜2004)
佐世保市生まれ。炭鉱で働きながらラジオドラマの台本や小説を発表。1957年から、作家の道へ。1958年にサンデー毎日大衆文芸賞を受賞した「異聞浪人記」が『切腹』(1962)、「拝領妻始末」が『上意討ち−拝領妻始末−』(1967)として、映画化される。「高柳父子」「かげろう記」「霧の底から」「仲秋十五日」「日向延岡のぼり猿」「主家滅ぶべし」で計6回、直木賞候補となる。
解説
伊達勢大軍による味方討ちで、神保隊三百余名は哀れ全滅する。伊達の権勢に遠慮した家康側は、この事件を闇にほうむろうとした。 真相を知り、娘婿神保長三郎の無念を思いやる老女お勝は、ひそかに一計を案じて洛中の街頭に立ったが……。大坂夏の陣を題材に、豊臣・徳川の交替劇を鮮烈多彩に描いた歴史小説集。
目次
花のようなる秀頼さまを
大野修理の娘
粟田口の狂女
燃えなかった蝋燭
坂崎乱心
孫よ、悪人になれ
国松斬られ
大野修理の娘
粟田口の狂女
燃えなかった蝋燭
坂崎乱心
孫よ、悪人になれ
国松斬られ
抄録
西海(九州)の大名は、兵庫の西宮に至りてわが令を待つべし、という大御所家康の命を奉じた島津少将家久(いえひさ)は、慶長十九年十一月なかば、大軍を率いて鹿児島を発し、陸路、日向(ひゆうが)の美々津(みみつ)へ向かった。美々津は高鍋城主秋月長門守の領地である。
この美々津で、鹿児島から回航されてくる船を待ち、海路兵庫におもむく手はずだったが、船はいっこうに姿を見せない。逆風のせいらしかった。いらいらする反面、家久はひそかに救いを覚えてもいた。
家康は明らかに、大坂の秀頼(ひでより)を滅ぼす気になっている。
「故太閤殿下ご供養(くよう)のために」
と自分がすすめておきながら家康は、秀頼名義をもって造営された方広寺(ほうこうじ)の大仏殿の鐘銘(しようめい)に、「国家安康」「君臣豊楽」の八文字があることを知るや、
「家康の二文字を分断して徳川家をのろうものなり」
と理不尽ないいがかりをつけ、ほかにもかずかずの難題をふっかけて、大坂方をしきりに挑発し、ついに戦いに追いこんだ。あまりにも露骨なそのやりくちは、うわさとなって遠い鹿児島にもつぎつぎに流れてくる。
「あくどいことをなさる」
心の底ではうとましく思っても、出陣を命ぜられれば、したがうほかはなかった。それだけに、船のおくれを喜ぶ気持がどこかにあった。
やがて月が変わって、十二月になった。船はまだ着かない。あまりおくれては、家康ににらまれる。さすがに家久もあせった。老臣の伊勢兵部貞昌(いせひようぶさだまさ)が、船奉行の山鹿(やまが)越右衛門とともに、秋月家の美々津郡代(ぐんだい)綾部(あやべ)助兵衛のもとへ出かけて、
「船をご周旋(しゆうせん)願いとうごわす」
と申し入れた。先発兵だけでも、少なくとも五十艘(そう)以上ほしかった。全軍となればその十倍を要する。それほどの船を美々津で用意するのはむずかしい。
「豊後(ぶんご)から借りてまいりましょう」
綾部助兵衛は、そう約束してくれた。秋月家は、島津家に恩義があった。もう十四年も昔になるが、関ケ原の戦いのとき、初め石田方だった秋月種長(たねなが)は、どたん場で家康方に寝返った。
この美々津で、鹿児島から回航されてくる船を待ち、海路兵庫におもむく手はずだったが、船はいっこうに姿を見せない。逆風のせいらしかった。いらいらする反面、家久はひそかに救いを覚えてもいた。
家康は明らかに、大坂の秀頼(ひでより)を滅ぼす気になっている。
「故太閤殿下ご供養(くよう)のために」
と自分がすすめておきながら家康は、秀頼名義をもって造営された方広寺(ほうこうじ)の大仏殿の鐘銘(しようめい)に、「国家安康」「君臣豊楽」の八文字があることを知るや、
「家康の二文字を分断して徳川家をのろうものなり」
と理不尽ないいがかりをつけ、ほかにもかずかずの難題をふっかけて、大坂方をしきりに挑発し、ついに戦いに追いこんだ。あまりにも露骨なそのやりくちは、うわさとなって遠い鹿児島にもつぎつぎに流れてくる。
「あくどいことをなさる」
心の底ではうとましく思っても、出陣を命ぜられれば、したがうほかはなかった。それだけに、船のおくれを喜ぶ気持がどこかにあった。
やがて月が変わって、十二月になった。船はまだ着かない。あまりおくれては、家康ににらまれる。さすがに家久もあせった。老臣の伊勢兵部貞昌(いせひようぶさだまさ)が、船奉行の山鹿(やまが)越右衛門とともに、秋月家の美々津郡代(ぐんだい)綾部(あやべ)助兵衛のもとへ出かけて、
「船をご周旋(しゆうせん)願いとうごわす」
と申し入れた。先発兵だけでも、少なくとも五十艘(そう)以上ほしかった。全軍となればその十倍を要する。それほどの船を美々津で用意するのはむずかしい。
「豊後(ぶんご)から借りてまいりましょう」
綾部助兵衛は、そう約束してくれた。秋月家は、島津家に恩義があった。もう十四年も昔になるが、関ケ原の戦いのとき、初め石田方だった秋月種長(たねなが)は、どたん場で家康方に寝返った。




















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