和書>小説・ノンフィクション>文芸>日本文学>現代小説
著者プロフィール
坂井 希久子(さかい きくこ)
1977〜
和歌山県和歌山市生まれ。2000年、同志社女子大学学芸学部日本語日本文学科を卒業。京都で会社員として働くも、一念発起し2002年に上京。アルバイトをしながらも別名にて「パライソマガジン」のライターなどをしている。
1977〜
和歌山県和歌山市生まれ。2000年、同志社女子大学学芸学部日本語日本文学科を卒業。京都で会社員として働くも、一念発起し2002年に上京。アルバイトをしながらも別名にて「パライソマガジン」のライターなどをしている。
解説
公園の薄汚い公衆便所。そこにふと立ち寄る人々の奇態や痴態や醜態をつぶさに見ること、それが「私」が自分に課した仕事である。個室の壁に書かれた落書きのひとつにすぎない「私」。だが生れ落ちたからには自分が何者かを知りたい、そのために見るのだ。覚めた目で人間達を見つつも、次第に毎日訪れるホームレスの「マツバラ氏」と心を通わせるようになっていく。何の係累も持たない二人は似たもの同士だった。だが、ある日突然マツバラ氏が忽然と姿を消す。焦れる「私」。マツバラ氏は一体どうしたというのか、そして「私」は結局、何者だというのか……。
抄録
私は、誰だ!?
その問いに私は言い淀む。貴方が「あなたは誰ですか?」と聞かれて逡巡するのと同様に。もし貴方が開き直って、或いは考えなしに、「私は一郎です。父『源五郎』と母『よね子』の交配によって生まれた坂巻家の長子で、家業の米屋を継いで経営しております。只今三五歳、嫁さん募集中です」というような答え方をするのであれば、「私は名前はありません。これまた名前も知らぬ頭の弱そうな男から生まれました。生まれた場所から一歩も動けず、仕方がないのでここでありのままを『見る』ことを生業としております。年齢は正確には分かりかねますが……三ヶ月といったところでありましょうか」と答えることはできる。
私が生まれ落ちて目を開いた時、真っ先に飛び込んできたのは男の顔だった。まだ若いだろうに頬が不健全にこけ、目の下はどす黒いくまが勢力圏を争う場となっている。両の耳たぶには銀色の輪が無数に連なり(後になってそれがピアスというものだと悟った)、同じものが瞼と唇にも一つずつ貫通している。右手に握られているのは、キャップを外した「なまえペン」。
そう私はその、インクのほとばしり、だ。
男は自分の生み出し得る限りの最高傑作である私に顔を近付けて、満足そうに頷いた。斜視ぎみの双眸がゆらゆらと揺れたかと思うと、「にへら」と形容するのが相応しい締まりのない笑いを浮かべる。前歯が三本、溶けたようになくなっていて、色の悪い歯茎が剥き出しになっていた。心ならずもこれが私の生みの親、だ。
しかし、親子の別離はあっけない。男は自分の偉大なる行跡にすぐさま興味を失くしたようで、手の力を緩めて「なまえペン」を自然落下させると、私に最後の一瞥もくれずにさっさとドアを開けて個室を出てしまった。こんな男でも親は親、惜別の思いで私はその後ろ姿を目で追う。生まれたばかりの私は心弱い。置いてきぼりは嫌だ。いきなり世界に放り投げられて、私はどうすればいいのか分からない。自分が何者かも分からない。せめてこの世を生き抜く術を教えてください。
それでも男は去っていく。私の存在など砂上の絵を消すよりも簡単に消え去ってしまっている。これから先、私を思い出すことなどないのだろう。男が薄情なのか、私がそれだけ取るに足りない者なのか。
寂しい。
私は何からも切り離されて、ただの一人だった。
*この続きは製品版でお楽しみください。
その問いに私は言い淀む。貴方が「あなたは誰ですか?」と聞かれて逡巡するのと同様に。もし貴方が開き直って、或いは考えなしに、「私は一郎です。父『源五郎』と母『よね子』の交配によって生まれた坂巻家の長子で、家業の米屋を継いで経営しております。只今三五歳、嫁さん募集中です」というような答え方をするのであれば、「私は名前はありません。これまた名前も知らぬ頭の弱そうな男から生まれました。生まれた場所から一歩も動けず、仕方がないのでここでありのままを『見る』ことを生業としております。年齢は正確には分かりかねますが……三ヶ月といったところでありましょうか」と答えることはできる。
私が生まれ落ちて目を開いた時、真っ先に飛び込んできたのは男の顔だった。まだ若いだろうに頬が不健全にこけ、目の下はどす黒いくまが勢力圏を争う場となっている。両の耳たぶには銀色の輪が無数に連なり(後になってそれがピアスというものだと悟った)、同じものが瞼と唇にも一つずつ貫通している。右手に握られているのは、キャップを外した「なまえペン」。
そう私はその、インクのほとばしり、だ。
男は自分の生み出し得る限りの最高傑作である私に顔を近付けて、満足そうに頷いた。斜視ぎみの双眸がゆらゆらと揺れたかと思うと、「にへら」と形容するのが相応しい締まりのない笑いを浮かべる。前歯が三本、溶けたようになくなっていて、色の悪い歯茎が剥き出しになっていた。心ならずもこれが私の生みの親、だ。
しかし、親子の別離はあっけない。男は自分の偉大なる行跡にすぐさま興味を失くしたようで、手の力を緩めて「なまえペン」を自然落下させると、私に最後の一瞥もくれずにさっさとドアを開けて個室を出てしまった。こんな男でも親は親、惜別の思いで私はその後ろ姿を目で追う。生まれたばかりの私は心弱い。置いてきぼりは嫌だ。いきなり世界に放り投げられて、私はどうすればいいのか分からない。自分が何者かも分からない。せめてこの世を生き抜く術を教えてください。
それでも男は去っていく。私の存在など砂上の絵を消すよりも簡単に消え去ってしまっている。これから先、私を思い出すことなどないのだろう。男が薄情なのか、私がそれだけ取るに足りない者なのか。
寂しい。
私は何からも切り離されて、ただの一人だった。
*この続きは製品版でお楽しみください。
本の情報
この本を読んだ人は、こんな本も読んでいます
形式
【XMDF形式】
XMDFデータをご覧いただくためには専用のブラウザソフト・ブンコビューア最新版(無料)が必要になります。ブンコビューアはここから無料でダウンロードできます。
詳しくはブンコビューアダウンロード初めての方へをご覧下さい。
対応端末欄に「ソニー“Reader”」と表示されている作品については、eBook Transfer for Readerで“Reader”にファイルを転送する事で閲覧できます。
海外版の“Reader”は対応しておりませんので予めご了承くださいませ。


























