和書>小説・ノンフィクション>ボーイズラブ小説>美少年
解説
16歳の衣緒は、可愛いのに人間不信で、つけられた家庭教師を次々やめさせていた。そんなある日、衣緒は強面の弁護士・可知と出会う。反発を覚える衣緒だが、彼が次の家庭教師だと知って!? ※ イラストは含まれていません。
目次
子猫の教育
あとがき
あとがき
抄録
地下鉄の階段を上ると、埃っぽい風がスプリングコートの裾を巻き上げた。
金曜日の夕刻の有楽町は大勢の人で賑わっている。外出は久しぶりなので、衣緒は一瞬その人混みにたじろいだ。
約束の時間にはまだ一時間以上ある。待ち合わせ場所のホテルは歩いてすぐなので、書店に寄って気になっていた新刊を買おうと思い、衣緒は立ち止まって辺りを見回した。
母が経営するクラブが銀座にあるのでこの界隈には時々来るが、ひとりで来ることは滅多にないのでなかなか地理を把握できない。それに衣緒は少々方向音痴だった。
(たしかこっちに大きい本屋さんが……)
うろ覚えの道をたどるが、目的の書店は一向に見つからない。
書店が見つからないことにいらいらして、衣緒は引き返してホテルに向かうことにした。早めに行ってロビーで待てばいい。新しい靴も今ひとつ足に馴染んでいなくて、これ以上無駄に歩きたくない気分だった。
ホテルは母や今日の待ち合わせの相手である政岡敦夫にちょくちょく連れてきてもらったことがあるのでさすがに場所はよく覚えている。
政岡は母のパトロンである。
母より二十ほど年上なので衣緒から見れば祖父みたいなもので……実際、母と二人のときはどうだか知らないが、衣緒が一緒のときは気前のいい祖父のような顔をしている。
衣緒が二歳になるかならないかのときに母は離婚し、以来衣緒は父親と会っていない。
母も会っていないようだ。連絡先くらいは知っているのかもしれないが、別に会いたいとも思わなかった。物心ついたときにはもう政岡が母の傍にいたので、衣緒にとっては政岡が父のような、祖父のような存在なのだ。
政岡には正妻がおり一緒に住むというわけにはいかなかったが、母と二人でも別に寂しいとは思わなかった。
自分を不幸だなんて、思ったことはない。
可愛がってくれる母がいて、生活の面倒を見てくれる人もいて、欲しい物は買ってもらえるしわがままも聞いてもらえる。
――――少々思い通りにならないことがあっても、気にせずやり過ごせばいいだけだ。
ホテルへの道すがら、映画館の前を通りかかり、衣緒はふと立ち止まって興行中のロードショーのポスターを覗き込んだ。DVDになったら観ようかと思っていた外国映画だ。
映画館の前には次回の上映時間に合わせて待ち合わせをしているらしい人が何人かいる。
そういえば、映画館も久しく行っていない。
(たまには大きなスクリーンで観るのもいいかな……)
食事が終われば母はそのまま出勤だから、銀座に出たついでに観て帰ってもいいかもしれない。ポケットから携帯電話を取り出し、衣緒は上映時間の案内をカメラに収めた。食事が長引いてもレイトショーには十分間に合いそうだ。
そう決めると少し気分が良くなり、衣緒は映画館を後にしてホテルを目指すことにした。
「あれ、観ていかないの?」
唐突にかけられた言葉に、衣緒は訝しげに振り返った。
大学生風の男がにこにこと笑っている。しかし初対面の相手にこんな笑顔を向けるなんて、いかにも裏がありそうだ。
「待ち合わせすっぽかされちゃってさ。これ、観たいんだろ? 一緒に観ようよ、奢るからさ」
男の笑顔を、衣緒はまじまじと見つめた。
「……僕、男だけど」
時々女の子と間違われてナンパされることがあるので、衣緒はできるだけ低い声を作って告げた。
「わかってるさ」
男の笑顔が、にこにこからにやにやへと変わる。
「中学生? あ、上映まで時間あるからお茶でもどう?」
衣緒の表情がみるみる険しくなっていくことに、男は気づかないらしい。
衣緒は男の子としてナンパされることも少なくない。これだからひとりで街に出かけるのは嫌なのだ。あれこれ言うと面倒なので、衣緒は無視することに決めた。
「あ、ちょっと待ってよ」
すたすた歩き出した衣緒を追いかけ、男は隣に並んだ。
(……こいつ結構しつこいな)
冷たい態度で背を向ければ相手はたいてい引き下がる。特に男だとわかっていてナンパするやつは、周囲の目が気になるのかしつこく追ってきたりはしなかった。
「君さあ、よくこんな風に声かけられんでしょ。なんかあしらい慣れてるもんね」
「…………」
「俺、別に怪しいもんじゃないよ? 何だったら学生証見せようか?」
「…………」
面倒なことになったな、と衣緒は内心焦り始めた。
「ほんと可愛いよね」
ふいに腕を掴まれ、衣緒は飛び上がった。
「放せよ!」
衣緒の剣幕に、男も驚いたようだった。
裏通りとはいえ、決して人通りも少なくはない。何人かが何事かというように衣緒と男を見たが、立ち止まる者はいなかった。
衣緒の腕を掴んだままの男の手に、ぐっと力が込められる。痩せぎすに見えるが、男は意外と力が強かった。
「そんな言い方ないだろ」
男の目つきが、がらっと変わった。
その豹変ぶりにどこか異様なものを感じる。どちらかというと冴えない風貌だったので舐めていたが、ちょっとやばいかもしれない。
(どうしよう……!)
いざとなったら交番に駆け込んでやる、と思っていたが、近くに交番は見当たらない。
通行人は皆関わりたくないらしく、そそくさと通り過ぎていく。
「……誰かっ」
助けて、と叫びたかったが、声が出なかった。
唇を噛んだそのとき――――。
「――――おい」
腕を掴んでいる男とは別の、低い声が頭の上から降ってきた。
「何をしてるんだ。通行の邪魔だ」
抑えた声音の、台詞とは裏腹に抑揚のない言い方だが、十分に威圧的だった。
見上げると、鋭い双眸と視線がぶつかる。
咄嗟に衣緒は「更にやばい人だ」と思った。
見たところ三十くらいの、長身でがっちりした体つきの男だ。浅黒い肌とやや面長の輪郭が男らしい顔立ちを更に強調している。濃い眉の下の切れ長の目は剣呑な光を帯び、やけに迫力があった。
黒々した髪を後ろに撫でつけ、仕立ての良さそうなダークグレーのスーツに身を包んでいるが……男の発する雰囲気は、どう見ても堅気ではなさそうだ。
「な、何ですか……? 俺は別に……」
ナンパ男も怯んだのか、衣緒の腕を掴んでいた手が緩む。
「こいつはお前の連れか?」
ズボンのポケットに手を突っ込んだまま、長身の男はナンパ男を顎で指して衣緒に尋ねた。
ぶんぶんと首を横に振る。途端に、腕を掴んでいた手がぱっと放れた。
「こんなところでキャッチセールスかよ」
「違いますよ。ちょっと、映画に誘ってただけで……」
長身の男が眉をしかめるようにして「ああ?」と呟いた。
本人はキャッチかと思ったらナンパだったので驚いたのかもしれないが、その不機嫌そうな言い方にナンパ男が身を竦めるのがわかった。
「……何だよ、声かけて欲しそうにしてたからかけてやっただけじゃん!」
小声で捨て台詞を吐いて、ナンパ男は早足で雑踏の中へ逃げていった。
(助かった……)
男の捨て台詞にむっとしつつ、衣緒は胸を撫で下ろした。
ちらりと隣を窺うと、長身の男と目が合ってしまった。じろりと見下ろされ、その視線から逃れるようにそっぽを向く。
「おい、中学生がひとりでふらふらしてんじゃねえぞ」
またしても中学生と間違われ、衣緒は唇をへの字に曲げた。
しかしこの男にはこれ以上関わらない方がよさそうだ。くるりと男に背を向け、衣緒はホテルを目指して歩き始めた。
「おい、なんだその態度は!」 背後で男がそう言っているのが聞こえ、振り返らずに衣緒は駆け出した。
*この続きは製品版でお楽しみください。
金曜日の夕刻の有楽町は大勢の人で賑わっている。外出は久しぶりなので、衣緒は一瞬その人混みにたじろいだ。
約束の時間にはまだ一時間以上ある。待ち合わせ場所のホテルは歩いてすぐなので、書店に寄って気になっていた新刊を買おうと思い、衣緒は立ち止まって辺りを見回した。
母が経営するクラブが銀座にあるのでこの界隈には時々来るが、ひとりで来ることは滅多にないのでなかなか地理を把握できない。それに衣緒は少々方向音痴だった。
(たしかこっちに大きい本屋さんが……)
うろ覚えの道をたどるが、目的の書店は一向に見つからない。
書店が見つからないことにいらいらして、衣緒は引き返してホテルに向かうことにした。早めに行ってロビーで待てばいい。新しい靴も今ひとつ足に馴染んでいなくて、これ以上無駄に歩きたくない気分だった。
ホテルは母や今日の待ち合わせの相手である政岡敦夫にちょくちょく連れてきてもらったことがあるのでさすがに場所はよく覚えている。
政岡は母のパトロンである。
母より二十ほど年上なので衣緒から見れば祖父みたいなもので……実際、母と二人のときはどうだか知らないが、衣緒が一緒のときは気前のいい祖父のような顔をしている。
衣緒が二歳になるかならないかのときに母は離婚し、以来衣緒は父親と会っていない。
母も会っていないようだ。連絡先くらいは知っているのかもしれないが、別に会いたいとも思わなかった。物心ついたときにはもう政岡が母の傍にいたので、衣緒にとっては政岡が父のような、祖父のような存在なのだ。
政岡には正妻がおり一緒に住むというわけにはいかなかったが、母と二人でも別に寂しいとは思わなかった。
自分を不幸だなんて、思ったことはない。
可愛がってくれる母がいて、生活の面倒を見てくれる人もいて、欲しい物は買ってもらえるしわがままも聞いてもらえる。
――――少々思い通りにならないことがあっても、気にせずやり過ごせばいいだけだ。
ホテルへの道すがら、映画館の前を通りかかり、衣緒はふと立ち止まって興行中のロードショーのポスターを覗き込んだ。DVDになったら観ようかと思っていた外国映画だ。
映画館の前には次回の上映時間に合わせて待ち合わせをしているらしい人が何人かいる。
そういえば、映画館も久しく行っていない。
(たまには大きなスクリーンで観るのもいいかな……)
食事が終われば母はそのまま出勤だから、銀座に出たついでに観て帰ってもいいかもしれない。ポケットから携帯電話を取り出し、衣緒は上映時間の案内をカメラに収めた。食事が長引いてもレイトショーには十分間に合いそうだ。
そう決めると少し気分が良くなり、衣緒は映画館を後にしてホテルを目指すことにした。
「あれ、観ていかないの?」
唐突にかけられた言葉に、衣緒は訝しげに振り返った。
大学生風の男がにこにこと笑っている。しかし初対面の相手にこんな笑顔を向けるなんて、いかにも裏がありそうだ。
「待ち合わせすっぽかされちゃってさ。これ、観たいんだろ? 一緒に観ようよ、奢るからさ」
男の笑顔を、衣緒はまじまじと見つめた。
「……僕、男だけど」
時々女の子と間違われてナンパされることがあるので、衣緒はできるだけ低い声を作って告げた。
「わかってるさ」
男の笑顔が、にこにこからにやにやへと変わる。
「中学生? あ、上映まで時間あるからお茶でもどう?」
衣緒の表情がみるみる険しくなっていくことに、男は気づかないらしい。
衣緒は男の子としてナンパされることも少なくない。これだからひとりで街に出かけるのは嫌なのだ。あれこれ言うと面倒なので、衣緒は無視することに決めた。
「あ、ちょっと待ってよ」
すたすた歩き出した衣緒を追いかけ、男は隣に並んだ。
(……こいつ結構しつこいな)
冷たい態度で背を向ければ相手はたいてい引き下がる。特に男だとわかっていてナンパするやつは、周囲の目が気になるのかしつこく追ってきたりはしなかった。
「君さあ、よくこんな風に声かけられんでしょ。なんかあしらい慣れてるもんね」
「…………」
「俺、別に怪しいもんじゃないよ? 何だったら学生証見せようか?」
「…………」
面倒なことになったな、と衣緒は内心焦り始めた。
「ほんと可愛いよね」
ふいに腕を掴まれ、衣緒は飛び上がった。
「放せよ!」
衣緒の剣幕に、男も驚いたようだった。
裏通りとはいえ、決して人通りも少なくはない。何人かが何事かというように衣緒と男を見たが、立ち止まる者はいなかった。
衣緒の腕を掴んだままの男の手に、ぐっと力が込められる。痩せぎすに見えるが、男は意外と力が強かった。
「そんな言い方ないだろ」
男の目つきが、がらっと変わった。
その豹変ぶりにどこか異様なものを感じる。どちらかというと冴えない風貌だったので舐めていたが、ちょっとやばいかもしれない。
(どうしよう……!)
いざとなったら交番に駆け込んでやる、と思っていたが、近くに交番は見当たらない。
通行人は皆関わりたくないらしく、そそくさと通り過ぎていく。
「……誰かっ」
助けて、と叫びたかったが、声が出なかった。
唇を噛んだそのとき――――。
「――――おい」
腕を掴んでいる男とは別の、低い声が頭の上から降ってきた。
「何をしてるんだ。通行の邪魔だ」
抑えた声音の、台詞とは裏腹に抑揚のない言い方だが、十分に威圧的だった。
見上げると、鋭い双眸と視線がぶつかる。
咄嗟に衣緒は「更にやばい人だ」と思った。
見たところ三十くらいの、長身でがっちりした体つきの男だ。浅黒い肌とやや面長の輪郭が男らしい顔立ちを更に強調している。濃い眉の下の切れ長の目は剣呑な光を帯び、やけに迫力があった。
黒々した髪を後ろに撫でつけ、仕立ての良さそうなダークグレーのスーツに身を包んでいるが……男の発する雰囲気は、どう見ても堅気ではなさそうだ。
「な、何ですか……? 俺は別に……」
ナンパ男も怯んだのか、衣緒の腕を掴んでいた手が緩む。
「こいつはお前の連れか?」
ズボンのポケットに手を突っ込んだまま、長身の男はナンパ男を顎で指して衣緒に尋ねた。
ぶんぶんと首を横に振る。途端に、腕を掴んでいた手がぱっと放れた。
「こんなところでキャッチセールスかよ」
「違いますよ。ちょっと、映画に誘ってただけで……」
長身の男が眉をしかめるようにして「ああ?」と呟いた。
本人はキャッチかと思ったらナンパだったので驚いたのかもしれないが、その不機嫌そうな言い方にナンパ男が身を竦めるのがわかった。
「……何だよ、声かけて欲しそうにしてたからかけてやっただけじゃん!」
小声で捨て台詞を吐いて、ナンパ男は早足で雑踏の中へ逃げていった。
(助かった……)
男の捨て台詞にむっとしつつ、衣緒は胸を撫で下ろした。
ちらりと隣を窺うと、長身の男と目が合ってしまった。じろりと見下ろされ、その視線から逃れるようにそっぽを向く。
「おい、中学生がひとりでふらふらしてんじゃねえぞ」
またしても中学生と間違われ、衣緒は唇をへの字に曲げた。
しかしこの男にはこれ以上関わらない方がよさそうだ。くるりと男に背を向け、衣緒はホテルを目指して歩き始めた。
「おい、なんだその態度は!」 背後で男がそう言っているのが聞こえ、振り返らずに衣緒は駆け出した。
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