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解説
戦争中、大尉であった道彦は軍上層部の命令により人名よりも機密保持を優先し、味方である男達を見殺しにするという苦い記憶があった。それから数年。病の妹を抱えた道彦はかつて見殺しにした男のひとり、成島の手に落ち、身体を売ることになるのだが……
目次
第一章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章
第二章
第三章
第四章
第五章
第六章
第七章
抄録
成島の口元に、ゆったりとした微笑が浮かび上がった。切り札を握っているのは自分だ。
「海軍軍人らしいいい覚悟をしているじゃないか、橘大尉殿」
成島は、いかにも情が薄そうな、道彦の薄い唇を見つめた。この高慢な唇から、必ず哀訴の声を上げさせてみせる。
「いろいろ調べさせてもらったよ、橘大尉。戦後は米軍の捕虜になり、昨年一一月に帰国。現在は妹と二人暮らし」
妹という言葉に、道彦の肩が小さく反応した。成島の微笑が深くなる。
「可哀想に、結核だそうだな」
「……妹は関係ない」
「だが、美人だ」
瞬間、道彦の冷たい眼差しに火が灯る。
「妹に何かしたら、貴様っ」
成島はわざとらしく手を広げた。
「褒めただけじゃないか。美人の妹だと」
「貴様とわたしのいざこざに、妹を巻き込むな」
押し殺した道彦の声には、それまでとはうってかわった強い感情がこもっていた。成島の目が、獲物を前にした獣のように細められる。
「お前の叔父は、可愛い姪のために力を貸してくれなかっただろう。あいつはそういう男だ。自分のため以外、びた一文使いたくない男だからな」
道彦は黙って、成島を睨んでいる。その怒りに、成島の喜びがかきたてられた。怒り、憎しみ、屈辱、そして、自らの力のなさを呪う惨めさを味わわせてやる。
成島は復讐の喜びをぞんぶんに楽しみながら、口を開いた。
「俺はおまえと違って思いやりのある男だから、おまえを憎んではいるが、妹を助けてやろう。俺なら、結核の治療薬を取り寄せることもできるし、この病気に必要な充分な栄養と休息を与えてやれる」
喉から手が出るほど欲しい援助の申し出だったが、道彦の眉が不審そうにひそめられた。様々な疑いが、今、道彦の中で渦巻いていた。
成島は楽しそうに、唇の端を上げた。高慢なその心が、もっとも屈辱と感じる仕打ちを与えてやる。
「……代償は?」
掠れた声で、道彦が訊ねた。
成島は道彦に背を向けると、待たせていた車のドアを開け、振り向いた。
「おまえの身体だ」
「……え?」
「誇り高い大尉殿には、男妾《おとこめかけ》になるのはさぞかし屈辱だろうな。だが、俺の望みはそれだ。大尉殿は俺の情婦になり、毎晩俺のために尻を差し出すんだ」
「なっ……!」
「妹を助けたいんだろう? それなら、おまえの身体くらい安いものだ。俺のために身体を開いて、いい声で鳴いていればいい。そうしたら、妹を助けてやる」
「馬鹿なっ」
道彦は吐き捨てた。男の身で同じ男の情婦になるなど、冗談としか思えない。
道彦は、ちらりと叔父の屋敷を振り返った。そんなことをするくらいなら、何度|足蹴《あしげ》にされようとも叔父に頼んだほうがはるかにましだ。
そんな道彦の考えを、成島はあっさりと笑い飛ばした。
「見込みがあると思っているのか? 馬鹿な男だな。そんなにひどく放り出されておいて」
「……く」
道彦は、自らの格好を見下ろした。叔父の用心棒に殴られ、蹴られ、衣服は土埃にまみれ、身体中が痛い。それでも、叔父が援助してくれる可能性に、道彦は縋りたかった。
成島は、じわじわと追い詰められていく道彦を嘲笑った。これほどの愉悦を感じたのは初めてだ。
「無駄だ、橘大尉。お前の叔父と俺は、浅からぬ付き合いがある。俺がひと言言えば、お前たちを切り捨てさせることなど造作もない」
「まさか……そんな……」
「もっともそこまでしなくても、奴におまえたちの援助をする気は端からないようだが?」
揶揄《やゆ》するように言われ、道彦は拳を握りしめた。
「――どうする、橘大尉?」
嗤《わら》い混じりに訊ねられる。道彦は拳を額に当て、唇を噛みしめた。
「か……考える時間を」
「それなら、この話はおしまいだな」
「頼む。二、三日だけでも考える時間が欲しい」
「わかった。妹と二人で心中でもするんだな」
成島は踵《きびす》を返し、車に乗り込もうとする。
道彦は慌てた。
「待ってくれ! 即答できるような内容ではないだろう。ほんの少しでいいんだ。考える時間をくれっ」
腕を掴んだ道彦を、成島は冷たく払いのけた。
「おまえも、俺たちに時間を与えなかった。あの島で、考慮の余地なくあっさりと切り捨てただろう。あの後、俺たちがどんな目に遭ったか知っているか? あの地獄と比べれば、俺のおまえへの仕打ちは慈悲深いと言ってもいいくらいだ」
道彦は言葉を失った。陰鬱《いんうつ》な声に、男の恨みが凝っている。
車の後部座席に乗り込んだ成島は、前方を真っ直ぐに見据えたまま口を開いた。
「乗るか、乗らないか。今選べ」
*この続きは製品版でお楽しみください。
「海軍軍人らしいいい覚悟をしているじゃないか、橘大尉殿」
成島は、いかにも情が薄そうな、道彦の薄い唇を見つめた。この高慢な唇から、必ず哀訴の声を上げさせてみせる。
「いろいろ調べさせてもらったよ、橘大尉。戦後は米軍の捕虜になり、昨年一一月に帰国。現在は妹と二人暮らし」
妹という言葉に、道彦の肩が小さく反応した。成島の微笑が深くなる。
「可哀想に、結核だそうだな」
「……妹は関係ない」
「だが、美人だ」
瞬間、道彦の冷たい眼差しに火が灯る。
「妹に何かしたら、貴様っ」
成島はわざとらしく手を広げた。
「褒めただけじゃないか。美人の妹だと」
「貴様とわたしのいざこざに、妹を巻き込むな」
押し殺した道彦の声には、それまでとはうってかわった強い感情がこもっていた。成島の目が、獲物を前にした獣のように細められる。
「お前の叔父は、可愛い姪のために力を貸してくれなかっただろう。あいつはそういう男だ。自分のため以外、びた一文使いたくない男だからな」
道彦は黙って、成島を睨んでいる。その怒りに、成島の喜びがかきたてられた。怒り、憎しみ、屈辱、そして、自らの力のなさを呪う惨めさを味わわせてやる。
成島は復讐の喜びをぞんぶんに楽しみながら、口を開いた。
「俺はおまえと違って思いやりのある男だから、おまえを憎んではいるが、妹を助けてやろう。俺なら、結核の治療薬を取り寄せることもできるし、この病気に必要な充分な栄養と休息を与えてやれる」
喉から手が出るほど欲しい援助の申し出だったが、道彦の眉が不審そうにひそめられた。様々な疑いが、今、道彦の中で渦巻いていた。
成島は楽しそうに、唇の端を上げた。高慢なその心が、もっとも屈辱と感じる仕打ちを与えてやる。
「……代償は?」
掠れた声で、道彦が訊ねた。
成島は道彦に背を向けると、待たせていた車のドアを開け、振り向いた。
「おまえの身体だ」
「……え?」
「誇り高い大尉殿には、男妾《おとこめかけ》になるのはさぞかし屈辱だろうな。だが、俺の望みはそれだ。大尉殿は俺の情婦になり、毎晩俺のために尻を差し出すんだ」
「なっ……!」
「妹を助けたいんだろう? それなら、おまえの身体くらい安いものだ。俺のために身体を開いて、いい声で鳴いていればいい。そうしたら、妹を助けてやる」
「馬鹿なっ」
道彦は吐き捨てた。男の身で同じ男の情婦になるなど、冗談としか思えない。
道彦は、ちらりと叔父の屋敷を振り返った。そんなことをするくらいなら、何度|足蹴《あしげ》にされようとも叔父に頼んだほうがはるかにましだ。
そんな道彦の考えを、成島はあっさりと笑い飛ばした。
「見込みがあると思っているのか? 馬鹿な男だな。そんなにひどく放り出されておいて」
「……く」
道彦は、自らの格好を見下ろした。叔父の用心棒に殴られ、蹴られ、衣服は土埃にまみれ、身体中が痛い。それでも、叔父が援助してくれる可能性に、道彦は縋りたかった。
成島は、じわじわと追い詰められていく道彦を嘲笑った。これほどの愉悦を感じたのは初めてだ。
「無駄だ、橘大尉。お前の叔父と俺は、浅からぬ付き合いがある。俺がひと言言えば、お前たちを切り捨てさせることなど造作もない」
「まさか……そんな……」
「もっともそこまでしなくても、奴におまえたちの援助をする気は端からないようだが?」
揶揄《やゆ》するように言われ、道彦は拳を握りしめた。
「――どうする、橘大尉?」
嗤《わら》い混じりに訊ねられる。道彦は拳を額に当て、唇を噛みしめた。
「か……考える時間を」
「それなら、この話はおしまいだな」
「頼む。二、三日だけでも考える時間が欲しい」
「わかった。妹と二人で心中でもするんだな」
成島は踵《きびす》を返し、車に乗り込もうとする。
道彦は慌てた。
「待ってくれ! 即答できるような内容ではないだろう。ほんの少しでいいんだ。考える時間をくれっ」
腕を掴んだ道彦を、成島は冷たく払いのけた。
「おまえも、俺たちに時間を与えなかった。あの島で、考慮の余地なくあっさりと切り捨てただろう。あの後、俺たちがどんな目に遭ったか知っているか? あの地獄と比べれば、俺のおまえへの仕打ちは慈悲深いと言ってもいいくらいだ」
道彦は言葉を失った。陰鬱《いんうつ》な声に、男の恨みが凝っている。
車の後部座席に乗り込んだ成島は、前方を真っ直ぐに見据えたまま口を開いた。
「乗るか、乗らないか。今選べ」
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