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灼熱に濡れた花嫁

灼熱に濡れた花嫁

著: ゆりの菜櫻
発行: 二見書房
レーベル: シャレード文庫
価格:840円(税込)
10ポイント還元
対応端末:パソコン ソニー“Reader”スマートフォン タブレット
みんなの評価 ★★★★☆10
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解説

 沙維は留学先のイギリスで、中東某国の王族・ザイードと運命的な恋に落ち、恋人同士になった。だが王位継承者のザイードにとって、同性の恋人はスキャンダルでしかなく、決死の思いで彼を振り日本へと帰国する。しかし二年後、突然何者かに襲われ意識を失った沙維が目覚めると、そこには自分を押し倒すザイードの姿が……。拉致された上、ハーレムに妾として繋がれ、変わり果てたザイードから受ける手ひどい仕打ちの数々に涙する沙維。一方その頃、水面下ではザイードを狙いある陰謀が進行していた……。生まれながらの王族ザイードと、強情で一途な沙維。黄金の砂漠に巻き起こる、情熱のラブ・ロマンス!

抄録

 ふと視線を落とすと、整然と並ぶ石畳が夏の雨に濡(ぬ)れて光っているのが目に入った。
 イギリスで最も美しい季節だというのに、本来濃い緑色をしているはずの芝生(しばふ)はどんよりとした雲の下で灰色に染まっていた。
 篠原(しのはら)沙維(さい)は駅のプラットフォームで一人、電車を待っていた。少し長めの髪を鬱陶(うっとう)しそうに払う姿はどこか物憂げだ。普段真珠色に輝いている肌も今日は雨で色を落とし、長い睫(まつげ)がわずかに震えていた。まるで泣いているようにも見える。
 大学の卒業式も終わり、長い夏休みに入ったある日、沙維は誰(だれ)にも言わずにそっとオックスフォードを去ることにした。
 時計を見れば針は夕方の六時を指している。イギリスではこの時季、六時ならまだ昼間のように明るいのだが、天気が悪いせいで今日は薄暗い。そのためか観光客の姿は見えず、いまから出かけようとする地元の人間もまばらだった。
「ふぅ…」
 夏の雨だ。かえって気持ちがいいと、沙維は傘をたたみ、濡れるにまかせて空を見上げた。雨とも涙ともつかぬものが沙維の白く滑らかな頬(ほお)を伝って落ちていく。
 駅からオックスフォードの景色をもう一度見渡す。霧雨に煙るオックスフォードの町角には、ただひたすら沙維と彼の優しく甘い思い出が隠されていた。
 駅まで歩いてくる途中、最後に、二人でよく登ったカーファックス・タワーを見上げてきた。そのタワーには時計があり、ローマ軍人を模した人形が十五分ごとに時を知らせる。
 見慣れたはずのこの光景も、二度と目にすることができないと思うと、沙維の胸は切なく痛んだ。
 愛してる。
 愛しているからこそ、彼を裏切る。
 沙維の絹糸のような黒髪が雨に濡れて細い雫(しずく)を携えた。
 ザイード、僕は君に憎まれても君のためになるなら、後悔はしない――。
「沙維!」
 突然、遠くから名前を呼ばれた。顔を見なくともその声で、沙維には誰がやってきたのかわかっていた。
 雨の中を走ってくる彼の足音が聞こえる。胸が詰まるような思いで振り返れば、彼の金の髪が眩(まばゆ)いばかりに光った。
「ザイード…」
 呼んではいけないと思っても、自然と彼の名前が唇から零(こぼ)れ落ちる。
 彼には人とは違うオーラがあった。それもそのはずだ。彼はザイード・ビン・サジット・アル=イフィリアース。アラブの一国、カフィール王国の第六王子であり、王位継承権、第四位という地位を持つ青年だ。
 美しい金の髪に意思の強そうなきりりとしたアメジスト色の瞳(ひとみ)。そしてコーヒーにミルクを落としたような肌の色。母親がフランスの女優ということもあって、エキゾチックなハンサムだった。
「沙維…」
 呼ばれれば、胸がズキンと大きく痛む。だが沙維は覚悟をしていた。
 彼と別れる――と。
「こんなところまで来て、なにか用でも?」
 随分と冷たい視線を目の前に立つ男に向けた。男の表情が強張(こわば)るのがわかる。それを見て、一層胸が引き裂かれるような痛みに襲われたが、それでも沙維は表情一つ変えなかった。
「沙維…一体、どうしたんだ?」
 雨で冷え切った沙維の手をザイードが握ってくる。手を通して伝わる彼の熱に、沙維の無理に凍らせた心が溶けて、涙となって目から溢(あふ)れそうになった。
「放してくれないか」
 沙維は慌てて手を振りほどいた。ザイードがその行為にまた傷ついた顔をする。
「沙維、なら言う! どうして私に黙ってここから去ろうとするんだ! 理由を教えてくれ。そうでなければ、私は君を放さない!」
「ザイード、いい加減に目を覚ました方がいい。僕たちはもう子供じゃないんだ。遊びも終わりだよ」
「沙維、なにを言っている…」
 ザイードの着ている綿のシャツが、霧雨とはいえぐっしょりと濡れていた。沙維を追いかけて、寮からここまで傘も差さずに走ってきたことが一目でわかる。
 ザイードの濡れた髪をぬぐってやりたい。そう思いながらも、沙維はザイードへの未練を払拭(ふっしょく)した。
「君とのつき合いは遊びだと言ったんだ。これ以上しつこくすると、警察を呼ぶよ」
「遊びだと? そんな、馬鹿な…。沙維、君がそんなふうに思うはずはない。私たちは愛し合ってたんじゃないのか?」
「男同士で愛し合うもなにもないだろう? ザイードもそろそろ世間の目を気にした方がいいよ。そうでなくとも君は奔放なんだから」
 彼のスミレ色の瞳が暗く沈む。
 どうか、僕みたいに彼を酷(ひど)く傷つける人が二度と現れないように――。神様、ザイードにご加護を…。
 沙維のどうにか堪(こら)えていた涙が雨と共に零れ落ちそうになる。だが、そこに電車の警笛が聞こえてきた。電車がプラットフォームに入ってくる合図だ。
「沙維!」
「お別れだ。ザイード。大学生活は愉(たの)しかったよ。だけど君も社会に出たら、僕みたいな悪い男に騙(だま)されないことだ。これでいい勉強になっただろ?」
 憎まれ口が次々と出てくる。
 心のどこかで、愛されないなら憎まれてでもいいから、自分のことをザイードの心の片隅ででもいいから覚えていてもらいたいと願っているからかもしれない。
 沙維は無言で立ち尽くす男から無理やり視線を外すと、電車に乗り込んだ。
「沙維!」
 プラットフォームから沙維を見上げてくる紫の瞳が悲しみに濡れていた。そのまま彼の足が沙維を追い、電車の入口にかけられる。

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