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著者プロフィール
桜田 晋也(さくらだ しんや)
一九四九年(昭和二四)札幌生。
一九七二年『浪漫』に文芸評論を発表。以後同誌を中心に評論活動に入る。一九八〇年『奈良日々新聞』に『南朝記』を連載。歴史小説の執筆活動に入る。主著に『明智光秀』『足利高(尊)氏』(以上読売新聞社刊)『尼将軍 北条政子』(角川書店刊)『元就軍記』(徳間書店刊)など歴史大河小説を中心に多数。他にNHK文化講演会。NTV「知ってるつもり」(北条政子編)などに出演。文芸家協会会員。静岡県下田市在住。
一九四九年(昭和二四)札幌生。
一九七二年『浪漫』に文芸評論を発表。以後同誌を中心に評論活動に入る。一九八〇年『奈良日々新聞』に『南朝記』を連載。歴史小説の執筆活動に入る。主著に『明智光秀』『足利高(尊)氏』(以上読売新聞社刊)『尼将軍 北条政子』(角川書店刊)『元就軍記』(徳間書店刊)など歴史大河小説を中心に多数。他にNHK文化講演会。NTV「知ってるつもり」(北条政子編)などに出演。文芸家協会会員。静岡県下田市在住。
解説
毛利と吉川・小早川の合併には、しばしば毛利元就の“乗っ取り”謀略説が取り沙汰される。けれども実際は手順を慎重に踏まえ、相手方の立場もよく考慮した上での結果であり、元就の慧眼が人心の機微に深く到達していたことを示すものであるという。
また、傑出した毛利一族の嫡男でありながら“将”としての才能に恵まれなかった輝元。偉人の「指導」がなければ家をまっとうできなかった彼の、皮肉に満ちた人生に迫る。
また、傑出した毛利一族の嫡男でありながら“将”としての才能に恵まれなかった輝元。偉人の「指導」がなければ家をまっとうできなかった彼の、皮肉に満ちた人生に迫る。
目次
毛利元就 吉川・小早川の両川の併合
毛利輝元 不器量な御曹司
毛利輝元 不器量な御曹司
抄録
こういう傑出した叔父達の間にあっては、輝元が出る幕はほとんどなかった。
両川の方も輝元を指導こそしたが、元就の遺訓を遵守し、毛利家を宗家として尊重していた。
戦局は一進一退の接戦が続いたが、やがて秀吉の物量作戦がじりじりと毛利側を圧迫しはじめる。
鳥取城が落ち、備中高松城が秀吉の水攻めによって風前の灯火になった時、本能寺の変が起こった。
秀吉はいち早く信長横死の情報を得るや、安国寺恵瓊を使者として事件を伏せたまま毛利と講和し、明智勢との対決のために軍勢を引き返した。
毛利側はその直後に本能寺の変の報を受け取る。陣中では秀吉を断固追撃すべしという意見が相継ぎ、一説では輝元も追撃論を強硬に主張したという。
これを抑えて毛利軍を踏みとどまらせたのは小早川隆景であった。
隆景は元就の「毛利は天下を競合するな」という遺訓を引きつつ、「主君の仇を討とうとする秀吉を討つのは大儀にもとる」と説いて兵を撤収させた。
結果的に見れば、秀吉はこれによって天下人となりえたわけである。
かくして秀吉は隆景を信頼し、五大老の一人に加えて重用した。
隆景はしかし、秀吉に協調しつつも、父の遺訓に従い、毛利の二字を片時も忘れなかった。
秀吉が輝元に子がないことを口実に自分の甥の秀俊(後の小早川秀秋)を毛利の養子に入れようとすると、隆景は機先を制して進んで自分の嗣子に秀俊を迎え入れている。
言うまでもなくこれは秀吉に毛利乗っ取りの下心があることを察知した措置である。
隆景はまたその死にあたって輝元に対し、
「天下が乱れることがあっても輝元がでしゃばって兵乱に関ってはならぬ。なぜなら天下を保つべき器量ではないからである。また安国寺恵瓊は人を欺き国家を覆す奸佞の者なれば決して信用してはならぬ」(『名将言行録』)と遺言していた。
輝元を「天下を保つべき器ではない」と断じたのは、事実上の後見人としての率直な感想だったにちがいない。
両川の方も輝元を指導こそしたが、元就の遺訓を遵守し、毛利家を宗家として尊重していた。
戦局は一進一退の接戦が続いたが、やがて秀吉の物量作戦がじりじりと毛利側を圧迫しはじめる。
鳥取城が落ち、備中高松城が秀吉の水攻めによって風前の灯火になった時、本能寺の変が起こった。
秀吉はいち早く信長横死の情報を得るや、安国寺恵瓊を使者として事件を伏せたまま毛利と講和し、明智勢との対決のために軍勢を引き返した。
毛利側はその直後に本能寺の変の報を受け取る。陣中では秀吉を断固追撃すべしという意見が相継ぎ、一説では輝元も追撃論を強硬に主張したという。
これを抑えて毛利軍を踏みとどまらせたのは小早川隆景であった。
隆景は元就の「毛利は天下を競合するな」という遺訓を引きつつ、「主君の仇を討とうとする秀吉を討つのは大儀にもとる」と説いて兵を撤収させた。
結果的に見れば、秀吉はこれによって天下人となりえたわけである。
かくして秀吉は隆景を信頼し、五大老の一人に加えて重用した。
隆景はしかし、秀吉に協調しつつも、父の遺訓に従い、毛利の二字を片時も忘れなかった。
秀吉が輝元に子がないことを口実に自分の甥の秀俊(後の小早川秀秋)を毛利の養子に入れようとすると、隆景は機先を制して進んで自分の嗣子に秀俊を迎え入れている。
言うまでもなくこれは秀吉に毛利乗っ取りの下心があることを察知した措置である。
隆景はまたその死にあたって輝元に対し、
「天下が乱れることがあっても輝元がでしゃばって兵乱に関ってはならぬ。なぜなら天下を保つべき器量ではないからである。また安国寺恵瓊は人を欺き国家を覆す奸佞の者なれば決して信用してはならぬ」(『名将言行録』)と遺言していた。
輝元を「天下を保つべき器ではない」と断じたのは、事実上の後見人としての率直な感想だったにちがいない。
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