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プロジェクトX 挑戦者たち 夢 遙か、決戦への秘策 兄弟10人 海の革命劇/魚群探知機・ドンビリ船の奇跡

プロジェクトX 挑戦者たち 夢 遙か、決戦への秘策 兄弟10人 海の革命劇/魚群探知機・ドンビリ船の奇跡


発行: 日本放送出版協会
シリーズ: プロジェクトX 挑戦者たち
価格:100pt
形式:XMDF形式⇒詳細 
対応端末:パソコン ソニー“Reader”
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解説

 今や世界中の漁船になくてはならない装備となった「魚群探知機」。超音波を使い、海の中の魚群を見つけだすこの装置は、勘と運に頼っていた漁業を革命的に変えた。
 昭和24年、魚群探知機を世界で初めて実用化したのは、長崎の港町、口之津に暮らす二人の青年だった。古野清孝、清賢兄弟。二人には8人の妹、弟がおり、失職中 の父に代わって、漁船の電気関係の工事作業で家族の暮らしを支えていた。漁師たちの運任せの仕事を見ていた二人は、魚を見つけだす機械を作れば必ずあたると動き出す。
 しかし、作り上げた試作器はエンジンの振動や海中の泡まで感知してしまい、使い物にならなかった。最初は協力してくれた漁師たちも怒り出す始末。そのなかに、協力を惜しまない船があった。五島列島で、もっとも漁獲高が低く「どんびり船」と呼ばれていた枡富丸。古野兄弟と枡富丸は魚群探知機を必死に改良。一発逆転の秘策を考え出す。
 家族のために困難な開発に挑んだ二人の若者と「どんびり船」の船員たちの挑戦のドラマを描く。

目次

一 海のなかの魚がみたい
二 手探りの開発と悪戦苦闘の海上実験
三 起死回生、ドンビリ船大逆転

抄録

一 海のなかの魚が見たい


 海の革命、魚群探知機


 一攫千金を夢見て、七つの海を駆け巡る世界各地の漁師たち。
 近年、急速に漁獲高を増やしている中国を筆頭に、日本、インド、インドネシアと続き、さらにタイ、アメリカ、ペルー、チリ、ノルウェー、そしてロシアが世界の一〇大漁業大国である。どの国も、漁の舞台は、近海にとどまらない。大規模な船団を組み、太平洋、大西洋はいうに及ばず、南氷洋から北極海まで、文字どおり、地球上のあらゆる海に魚を追っている。
 大群に当たれば、一網揚げるだけで数千万円。高級魚になれば、億単位の儲けになる。現在、漁業は、世界中で年間およそ九五〇〇万トンの水揚げがあり、この五〇年で漁獲高は飛躍的に増えた。
 世界中の漁船という漁船の船室には、船の大小や国籍にかかわらず、必ず、ある「装置」が備え付けられている。「魚群探知機」である。
 魚群探知機は、海中深く泳ぎ回る魚の群れを超音波で捕らえ、船室に備え付けられた小型モニターにその魚影を映し出す。漁の責任者は、その画面を見て網を打つ場所やタイミングを決める。魚群探知機は、まさに、漁の生命線である。
 半世紀前、この魚群探知機の登場によって、世界の漁業は革命的に変わった。かつての漁は、何よりも漁師が経験のなかで培ってきた「勘」と、その日の「運」が頼りであった。数隻の船が船団を組んで行う大規模な漁の場合、出漁に伴う人件費や燃料費は莫大な額に上る。漁師の勘が外れれば、あっという間に大赤字。不漁が続けば一家離散の悲劇が待っていた。もちろん現在でも、漁業は、天候や自然環境の変化に左右され、不安定な要素が少なくないが、当時は、いまとは比べようもないほどリスクの高い、「博打」のようなものだったのである。
「船の上から、海のなかの魚の群れを見つけられないか」
 それが世界中の漁師の共通の夢であり、実際、各国の技術者が競って、そんな夢の装置の開発に取り組んでいた。
 そんななか、いち早く、魚群探知機の実用化に成功したのは、九州・長崎で漁船の電気工事を手がけていた社員七人の合資会社、古野電気工業(現・古野電気)だった。
 時代は、日本中が混乱と貧困のただなかにあった昭和二〇年代の半ば。魚群探知機実用化の中心にいたのは、家族を養うために旧制中学を中退して働いていた一〇人兄弟の長男・古野清孝と次男・清賢。そして、南條保や平熊太をはじめとする若い社員たち。さらに、不漁に悩む巻き網船団の網元・枡田富一郎が、手探りの開発に力を貸した。
 海に革命を起こし、世界の漁業を画期的に変えた魚群探知機。その誕生の陰には、長崎の海を舞台にした男たちの知られざるドラマがあった。


 長男・清孝の決断


 昭和一二(一九三七)年、日本は暗い戦争の時代に足を踏み入れようとしていた。
 前年には、皇道派青年将校が斉藤実内大臣、高橋是清蔵相らを殺害する、いわゆる二・二六事件が起き、この年の七月には、盧溝橋で日中両軍が衝突、日中戦争が勃発した。戦時経済を支えるために経済統制が始まり、「贅沢は敵だ」の立て看板が街頭に並んだ。国民の生活は日に日に窮乏し、とくに地方の農村部は、昭和九年の大凶作以来、不作が続き、人々は疲弊しきっていた。
 九州・有明海を北に臨み、懐には雲仙の峰々を抱く長崎県の島原半島――その南部に、半農半漁の南有馬町がある。この町は、江戸時代のキリシタン大名・有馬晴信ゆかりの地として知られ、一六三七年に起きた島原の乱では最後の戦いの舞台となった場所である。
 島原地方の多くの町がそうであるように、この南有馬もまた風光明媚な農村だったが、戦時下の鬱屈した空気はこの地にも漂っており、長引く不作・不漁に、町は活気を失っていた。
 ここに、貧しい一〇人家族がいた。古野清照一家。家長の清照と妻・マツヨは一六歳の長男を筆頭に八人の子どもを抱えていた。
 古野家はかつて、南有馬有数の名家だった。江戸時代には、島原藩主松平家の直臣として勘定奉行や槍奉行を務めており、清照の父・清秀は尋常小学校の校長として明治期、地域教育に尽力、功績をたたえる碑が建てられたほどの名士だった。清照もまたその跡を継いで小学校の教員となり、高潔な人柄から町の人々の信望は厚かった。
 しかし、昭和の時代になってから南有馬町の財政が悪化。清照は教員を辞して代用教員となるが、緊縮財政が進められるなかでその職も失い、恩給のみで大家族を養う生活となった。恩給といっても月三〇円そこそこで、中卒の初任給にも満たない額である。清照は、農業に自活の道を求めたが、それで生活をまかなうには家族が多すぎた。
 長男・清孝一六歳、長女・キマ一四歳、次男・清賢一〇歳、次女・恭子八歳、三女・矩子六歳、四女・弥代子四歳、五女・明江二歳、六女・悦子〇歳――。八人の子どもを食べさせていくためには、借金に頼るしかなかった。家には毎月のように借金取りが督促に来た。応対に出るのは妻・マツヨの仕事だったが、返済する金がないと知ると、督促業者は庭のミカンまで持ち去った。子どもたちは、頭を下げつづける母の姿を、家の奥から息を潜めて見ていた。
 長男の清孝は、このとき、名門で知られる旧制長崎県立島原中学の四年生。弟、妹たちからは、いちばん上の兄、「ふとか兄ちゃん」と呼ばれていた。「ふとい」は、この地域の方言で「大きい」を意味する。
 清孝は子どものころから、木切れやブリキの切れ端を集めては飛行機や船の模型をつくるのが大好きで、いずれは技術者になりたいという夢を抱いていた。中学を卒業するまであと一年。卒業後はさらに進学し勉強を続けたいと考えていたが、それが難しいことは、一六歳の清孝にも容易に察しがついた。
 ある日清孝は、「父さんの代わりに俺が働く」と宣言し、中学を中退すると言い出した。教育を何よりも重んじてきた父の清照は、息子の中退に反対した。もちろん清孝にしてみても、せめて専門学校に行き、技術者として身を立てたいという思いは強烈にあった。しかし、たとえこのまま自分が進学し、その後、教師か、技術者の道を歩んだとしても、師範学校卒の初任給は四二円しかない。専門学校を卒業すると六〇円、大学卒業でも八〇円だった。昭和一二年の家計調査によると――清孝が確認したところ、給与生活者一世帯の月支出の平均が八六円八九銭。自分が大学を出て就職をしたとしても、古野家のような大所帯の生活をまかなうにはほど遠かった。
 そして何より清孝は、自分には長男として、弟や妹の行く末を考える義務があると思っていた。進学を勧める父を押し切ると、四年生が修了したところで中学を辞めた。
 一〇人家族の生活を支える収入の道として、一六歳の清孝が考えたのは、ラジオ修理業であった。世界が第二次世界大戦へ向けて突き進んでいたこのころ、戦況を伝えるラジオの普及は目覚ましく、日本全国で受信契約が三〇〇万を突破していた。元来機械好きであった清孝は、ラジオ修理ならば、多額の開業資金も必要なく、同時に自らの特技を生かすことができると考えたのである。
 一念発起して独学で勉強し、「指定ラジオ相談所主任技術者」というラジオ技術士の検定試験を受けて、見事合格した。開業免許を取得すると、父・清照が四〇円を工面してくれ、それを元手に、南有馬町でラジオ修理業を始めた。
 当時、清孝の住む南有馬町にも、ラジオは普及しはじめていたが、そのころのラジオはどれもすぐに故障するような代物ばかり。壊れたラジオを修理できる電気店など周辺にはほとんどなく、少年・清孝の商売は、思いのほか繁盛することとなった。


 兄弟「電気工事人」


 仕事のおもしろさに目覚めた清孝は、さらに電気工事業にも仕事を広げようと、翌年、甲種電気工事人免許を取得。ラジオ修理で稼いだ金を元手に必要な道具を揃え、昭和一四(一九三九)年、南有馬から数キロ離れた島原半島西南端の港町・口之津に、「古野電気商会」という小さな店を立ち上げた。清孝が目をつけたのは、漁船を相手にした電気工事である。
 口之津は、早崎瀬戸をはさんで対岸に漁業の盛んな天草諸島があり、港には漁船、機帆船が次々と出入りし、いつも活況を呈していた。清孝がにらんだとおり、ここには、発電機、集魚灯などの電気設備の取り付け工事や修理、船舶ラジオの装備など、仕事があふれていた。
 そして、当時の日本は、戦況に応じて灯火管制が敷かれるようになり、その統制は漁船の集魚灯の明かりにも及んでいた。どの船も、夜間の海上での灯火を控えるため、集魚灯を海中で使用できるよう、電装工事を行う必要があった。
 清孝は、持ち前の器用さを存分に発揮した。漁船がドックに入っている間に、素早く仕事を済ませる便利な会社と、港では評判を呼んだ。清孝は、集魚灯の工事から修理、充電器の交換と、しゃにむに働いた。自分が一家の大黒柱であるという責任感が、若い清孝を仕事に駆り立てた。
 清孝は当時を振り返って語る。
「生活は苦しかったからですね、とにかく、この貧乏を弟妹にもさせちゃいけないと。長男として、貧乏というのは罪悪と思いましたね」


*この続きは製品版でお楽しみください。

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