和書>小説・ノンフィクションハーレクインハーレクインSP文庫


解説

クレオは大手金融機関の頭取ジュードの個人秘書として働き、冷徹で気難しいと評判のボスから厚い信頼をよせられていた。だが、そんなクレオに卑劣な罠が突然襲いかかる。元ボーイフレンドが執拗につきまとい、彼女の弱みにつけこんで、大金を差し出すよう恐喝してきたのだ。心臓に持病のある叔父には、絶対に心労をかけられない。かといって亡父の遺産にはある条件がつけられているため、容易に手は出せない。せめて、あの条件さえ満たせれば……。悩んだ末、クレオはボスに訴えた。「私と結婚してほしいんです」

抄録

苦しい時間がすぎていく。すぐに断られるかとクレオは思った。ジュードの体の動きが止まり、身じろぎもしなかったが、やがて男らしい口元に一瞬、かすかな微笑がよぎった。気のせいだったかもしれない。
ジュードがまだ黙っているので、クレオは高価なスーツに包まれた背筋をもどかしげに緊張させた。何も言わないつもりかしら?彼が紳士らしいそぶりで私の質問を無視するとしたら?ぎょっとする求婚話は痛ましい錯乱だと考えて、丁重に聞かなかったふりをされたら、どうしよう?
まあ、それならもう一度繰り返せばいいわ。クレオは平静な態度をとることにした。そう考えたものの、手のひらが汗ばみ、不意に唇が乾いて、ゆっくり舌の先でなめた。ジュードはクレオのそわそわした態度で我に返ったのか、手をわずかに動かして椅子を指さした。クレオはほっとして腰を下ろす。どういうわけか膝の力が抜けそうだった。
クレオは口には出さず、人一倍大きな目で伝えた。答えて。せめて少しでも考えてほしいの。彼が同意してくれることが、ただ一つの難問の解決策だった。叔父のために、ぜひ同意してほしい。
だが、今どうして入り込んだのかわからないが、頭の中に漠然とした何かがあるようだ。彼に受け入れてもらうことが、まったく別の意味で大切なのだと……。自分でもわけがわからないが、なぜか頭がくらくらして、息苦しくなってくる。
「それで?」彼はやっとうながすように言って、黒いまつげの下からじっとこちらを見た。
思いがけない穏やかな質問に平静さを失い、クレオはグレーの目をいっそう大きくして白い肌を赤らめた。「それで?」クレオは乾いた口でおうむ返しに言った。
「それで、なぜ思いがけない興味を持った?」ジュードは言い足した。「一年間、とてもいい雰囲気で仕事をしてきたのはたしかだ。だが、きみから情熱の兆候を感じたことはない。それに」彼は丁重で落ち着いた口調で続けた。「きみは結婚したがって必死になるタイプとは思えないんだが」
彼は誤解している。クレオは必死なのだが、彼の想像するような理由からではない。結婚という利点に引かれたことはなかった。自分に満足し、人に頼らないことを学んだのだ。だが、後見人の眼鏡にかなうジュード・メスカルのような男性と結婚することが、厄介な問題を解決するただ一つの道だ。
だが、少なくとも今、ジュードはクレオの筋の通らないような質問に、筋の通った説明を求めている。それなら何とかなる。さっき一瞬だけ、自分でも何かはっきり理解できない感情を持った。奇妙でわけのわからない瞬間、この男性と結婚することが、まったく思いがけない面で大事な気がしたのだ。
異常な反応は、神経が混乱していたせいだわ。クレオはきっぱり自分に言った。これほど神経質になるなんて思わなかった。
しだいに緊張がとけ、こわばった背中や首の力が抜けてきた。逃げようのない事実に慣れ、彼に披露する心構えができた――ぜひとも必要な範囲だけを。
クレオは膝の上で手を軽く握り、冷静で率直な目をして言った。「今すぐかなりの額のお金がいることになったんです。父の遺言の条件で、あと一年遺産は受け取れないことになっています。ただ、それ以前でも叔父と叔母が認める相手と結婚すれば、遺産は自動的に私のものになるんです。叔父夫婦はあなたを認めてくれるでしょうから、そう、三週間以内に結婚すれば、遺産を引き継いで必要なお金が使えるんです。そう多額じゃないけれど」遺産を使ったあげく、彼の財産を当てにするかと誤解されないように念を押した。「全体として見れば大したことはないと思いますわ。将来受け取る父からの遺産は、スレード財閥として有名ですもの」
彼は軽くうなずいた。もともとシティでは常識だった。クレオは事実を簡潔に説明し、結婚を申し込んだ理由を明らかにしたのだ。ジュードがくすくす笑いだしたので、クレオはあっけにとられた。“凍結資産”と呼ばれる彼にしては珍しいこと!
彼の青い瞳が楽しそうに輝くのを見て、クレオは肌がほてるのを感じた。結婚してほしいと頼むだけでも屈辱だったのに、冗談だと思われて、ますます気分が悪くなってきた。
「ローンを組んだほうが簡単じゃないのかい?」ジュードはしばらく、おかしそうに目を輝かせていたが、やがていつもの顔になった――よそよそしく、冷静で理性的だ。「結婚をするというのは、かなり思い切った方法という感じだね。お父さんの遺産の管財人に相談できなかったの?それを言うなら」彼は広い肩を少し上げた。「ぼくが貸してもいい。きみの信用格づけはすばらしいよ」ジュードは皮肉につけ加えた。それから大きなデスクの反対側の椅子に腰を下ろし、指を組み合わせた上から、賢そうな目を細くして彼女を見守った。「いくら?何のために?」
だが、クレオはきっぱりと首を横に振った。顔にかかったプラチナブロンドの髪が揺れる。「借りるのはいやなんです」お金がいる理由をだれにも知られたくないが、それだけの金額を貸そうという人は、使い道を知りたがるに決まっている!クレオが思わず訴えるような目で見ると、彼は穏やかに尋ねた。
「何か困っていることがあるんだね?」


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