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遙かな森の天使【MIRA文庫版】

遙かな森の天使【MIRA文庫版】

著: ヘザー・グレアム 翻訳: 風音さやか
発行: ハーレクイン
レーベル: MIRA文庫mirabooks



解説

知らぬ間にさだめられていた伯爵家子息との婚約。だが心は黒ずくめの男に奪われ――19世紀末英国、波乱の恋。

森のコテージで大切に育てられ、いまや美しく成長した孤児のアリー。ある日後見人スターリング卿に呼ばれ馬車で城に向かったアリーは、覆面をした黒ずくめの男に襲われる。最近世間を賑わせている、富豪から金品を盗んでは貧しい民衆に与えるという追いはぎだ。だが男は、恐怖に震えながらも果敢に立ち向かうアリーを面白がり、しかもなぜかアリーの名前を聞くとすんなりと彼女を解放した。謎めいた男のことが頭から離れないアリーだが、動揺に追い打ちをかけるように城に着いてまもなく、自分に婚約者がいることを聞かされ……。
*本書は、MIRA文庫から既に配信されている作品と同作品になります。 ご購入の際は十分ご注意ください。

抄録

彼はにやりとした。「もう呼吸は整ったかい?」
「ええ、すっかり。ありがとう」
「やめたほうがいい」
「なにを?」
「もう一度逃げだすのをさ」
「逃げだす以外にわたしになにをしろというの?」
「さっきも言ったように、ぼくはきみに危害を加えるつもりはないよ」
「あなたの言葉を信じろと?」
「きみが逃げたら、ぼくはまたきみを捕まえなくちゃならない」
「でも、今度は捕まらないわ」
彼はため息をついて頭を振った。「捕まえるさ。それに今度は容赦しないからな。やめておいたほうがいい」
「わたしは人にあれこれ指図されたくないの。足どめされるのだっていやだし、なによりならず者と話をするのなんて大嫌い」
追いはぎは両手をあげてやれやれという仕草をした。「きみはきみのすべきことをすればいい。ぼくはぼくのすべきことをする」
アリーは再び顎をつんとあげ、もつれた長い金髪を少しでも整えようとした。今や背中に垂れているだけでなく、顔にかかって視界の邪魔になっている。「その気さえあれば、あなたは犯罪から足を洗うことができるのに。今すぐやめなさい。伝説の人になりなさい。ちゃんとした仕事に就いて、新しい人生を始めたらいいわ」
「しようと思えばできる……」
「だったらそうしなさいよ」アリーはしつこく言い張った。
「残念ながらそうはいかないんだ」
「まあ……」アリーはいらだたしげにため息をついた。追いはぎの筋肉が緊張し始めたのを見てとり、きっとこの人はわたしに襲いかかるつもりなのだと気づいた。
もうほかにとるべき手だてはない。アリーは再び逃げだした。
今度はたちまち捕まった。
つかまれる前から彼女は追いはぎがすぐ背後に迫っているのを感じた。息を、熱を、彼の力を感じた。
やがて彼の腕が彼女の体にまわされた。
死に物狂いで駆けていたアリーは勢いあまって前へつんのめり、追いはぎともども松葉の散り敷いた地面に倒れた。松葉とやわらかな土が口のなかへ入ってくる。彼女は咳きこんで口のなかのものを吐きだし、反転しようとしたが、追いはぎが上にのっていた。なんとか仰向けになったものの、それ以上は動けなかった。追いはぎが息ひとつ乱さず彼女にまたがり、相変わらず愉快そうな目で見おろしているので、侮辱されたような気がした。
アリーは咳きこみ、怒りのまなこで彼をにらんだ。実際に捕まってみると、さっきよりもっと大きな恐怖に襲われた。
彼女は追いはぎと言い争おうとはしなかった。わたしの上からどいてと懇願する代わりに、あらん限りの力で彼の胸にこぶしをたたきつけ、必死で体をよじった。けれどもそれは追いはぎの怒りを募らせるだけだった。彼がアリーの手首をつかんで頭の上の地面へ押さえつけたので、ふたりの顔がいっそう近づく結果になった。
彼の顔から愉快そうな表情が消えているのに気づき、アリーはいくぶん気が晴れた。
だが、その小さな勝利の喜びのなかで、自分が敗者であることを悟った。
「もう観念したらどうだ?」追いはぎが言った。
アリーはなにも言わずに横を向いたままじっとしていた。
彼が力を抜いた。依然アリーにまたがってはいるものの、もうそれほど強く地面へ押さえつけてはいない。
「今度捕まえたときは容赦しないから、逃げださないでおけと忠告しただろう」彼は穏やかに言った。
「あなたって本当に卑劣な人ね」アリーは小声で応じた。
「そりゃあ、追いはぎだからな」彼はじれったそうに言った。「礼儀正しい振る舞いを期待してもらっては困る」
アリーは彼の感触を、押さえつけてくる彼の太腿を、彼女に苦痛を与えないように座っている彼の配慮を意識した。
追いはぎが彼女にふれた。
手をのばして、彼女の顔にかかっている乱れた髪をかきのけたのだ。ほんの少しのあいだ、彼の指が名残惜しそうに彼女の頬にとどまっていた気がした。
彼のふれ方はやさしかったけれど、彼女を放す気はないとみえてしっかり地面へ押さえつけている。
アリーは彼から視線をそらしたまま尋ねた。「今度はどうするの?わたしをどこへ連れていく気?」
「ぼくが最初から知りたがっていた質問に答えてもらおう。きみの名前は?なんの用事で伯爵の城へ行くんだ?」
突然、激しい恐怖に見舞われたアリーは、眉根を寄せて彼を見あげた。口をつぐんでいるべきだとわかっていたが、できなかった。
「まさかあなたは……例の反王制主義者のひとりではないでしょうね?」小声で尋ねる。
驚いたことに彼はにっこりし、安心させようとするかのように指の関節で彼女の顎を軽くなでた。
「いいや、違う。女王陛下万歳さ。ぼくは昔ながらの善良なる英国の悪党だ」追いはぎは低い声で断言した。
アリーはその言葉を信じた。仰向けに地面へ押さえつけられて完全に彼の支配下に置かれていながらも、彼を信じた。彼女はそっとため息を漏らした。
「それで、あなたはわたしを殺すつもりはないの?……あるいはほかのだれかを」
「絶対に殺しはしないよ、娘さん」
「お願い、わたしを“娘”呼ばわりしないで」
「きみが名前を教えないからさ」
アリーは彼をじっと見つめた。わたしたちはなんて親密な姿勢をとっているのかしら。そう考えたとたんに彼女の頬が真っ赤になった。この人はまぎれもない悪党だ。それなのにわたしときたら、彼の声をハスキーで魅力的だとか、彼のふれ方がだれよりもやさしくて心地よいなどと感じているなんて。


*この続きは製品版でお楽しみください。